Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:小泉由美子(慶應義塾大学大学院修士2年)

「光と闇の薄暗さ」

 もし私たちの心が、アメリカの光と闇というテーマに捉えられるならば、それは光と闇の明暗法に魅了されるからかもしれない。パクス・アメリカーナの栄光と、先住民・奴隷・移民への抑圧の歴史。エマソンを透明な眼球へと導いた啓蒙の光と、イシュメイルを残して全てを飲み込んだメルヴィルの深く暗い海。しかし、光と闇の魅力は明暗法に尽きるものではない。ときに混じり合い、ときにある種の薄暗さを生じさせる。それは光と闇の共存、衝突、矛盾だろう。栄光と抑圧の歴史の果てに生きること。啓蒙の光を浴びつつ暗い海を前にして立ち竦むこと。本書『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』が教えてくれるのは、こうした薄暗さに宿る文学だ。

 竹内勝徳氏高橋勤氏の編集による『環大西洋の想像力ー越境するアメリカン・ルネサンス文学』(彩流社、2013年)は、三部編成、各五篇、計十五篇の論文から成り、冒頭には、ポール・ジャイルズ氏の2011年の福岡講演「アメリカ文学を裏返す」が寄せられる。本書の試みは、ジャイルズ氏による国境横断的視点を主軸に、アメリカン・ルネサンス文学を再考することだ。取り上げられる書き手は、エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマンに加え、エドガー・アラン・ポーに、マーガレット・フラー、ルイザ・メイ・オルコット、マーティン・ディレイニー、はたまたFO・マシーセンにチャールズ・オルソンと多彩である。第一部「大西洋世界の旅と交易」では、上記作家たちやその作品の登場人物たちによる、大西洋を舞台とした越境的活動が考察される。続く第二部「ニューイングランドの変容」では、大西洋に面し経済的・思想的交流の窓口として機能した、東部ニューイングランドに焦点が絞られる。第三部「国家とエスニシティ」では、人種、異文化、移民たちの表象へと光が当てられ、イタリア、ユダヤ、黒人奴隷、北米先住民、アイルランドをめぐる作家たちの越境的想像力が検討される。

 ここでとりわけ注目したいのは、第二部「ニューイングランドの変容」に収められた二つの論文、成田雅彦氏による「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬ーエマソン、ポー、「理性」のゆくえ」と、阿部公彦氏による「ホイットマンの音量調節」だ。ニューイングランドという土地は、17世紀植民地時代からの古い価値観が根付く一方、18世紀以降は大西洋を超えて新しい啓蒙主義的理性がもたらされ、19世紀中葉にはアメリカン・ルネサンスが花開く舞台となる。上記二つの論文は、この地を舞台としたアメリカン・ルネサンスの作家たちが、一見すると確固とした啓蒙主義的理性や知性に依拠しながらも、いかに彼らの足下が不安定で危ういものであったかを露呈させる。

 成田氏の「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬」によると、啓蒙主義的理性は、呪術や情念に蓋をしようと努めてきたが、のちに限界を迎え、そのことがアメリカン・ルネサンスの作家たちの描く「埋葬の破綻」というモチーフに表れているという。この点が、エマソンとポーそれぞれの「埋葬」が取り上げられ、論証される。エマソンは、理性への信奉から、呪術を追放・埋葬したのち、自身の理性を神秘主義へと昇華させ、ポーは、短篇「アッシャー家の崩壊」において、理性の信奉者ロデリックに妹マデラインを埋葬させ、その蘇りを描く。エマソンが、理性へ依拠したにもかかわらず、「一足跳びに我々の意識を神の巨大な力、神秘的光源に向けた」一方、ポーは、理性を信奉するあまり「女性的な欲動、生命力」に肯定的な力を与えることができなかったという。理性による、呪術の埋葬と女性的情動の埋葬は、どちらも成就しないのだ。

 阿部公彦氏による「ホイットマンの音量調節」は、3.11以後の日本で、震災鬱に見舞われた高橋源一郎氏が、抒情詩が持つような親密で小さな声の語りは読むことができた、というエピソードから始められる。こうした抒情詩の小さな声は、声高に語るイメージを持つホイットマンにも見出せるという。阿部氏はこの点を、詩人の「僕は知っている(I know)」という表現に注目することで検証する。ホイットマンは、「僕は知っている」と繰り返すことで、むしろ彼の知が「無根拠」であり「論証や証明が可能なものではないし、採点したり、当否を議論したりすることができるというものでもない」ことを露わにする。と同時に、こうした「薄暗い」無根拠さの奥に垣間見える「弱さ」の魅力は、「ある種の安定した言葉に心がもはや反応できなくなったとき」に気付かれるものかもしれないという。もし、このある種の安定した言葉というものが、19世紀アメリカの啓蒙主義的理性の言葉にあたるとするならば、それに対して心が反応できなくなったときとは、前述の成田氏が論じるとおり、エマソンが神秘主義へと飛躍したとき、ポーが埋葬の失敗を描かざるを得なかったとき、と言えるかもしれない。ホイットマンの小さな声は、理性や言葉の破綻に直面したものたちに響くだろう。

 1941年出版のマシーセンの『アメリカン・ルネサンス』は、その文学的価値を語る点において、光に満ち溢れていたかもしれない。しかし、約70年を経て「裏返された」アメリカン・ルネサンスは、どことなく薄暗い。それは抑圧の歴史に由来するのかもしれないし、大西洋という暗い海に由来するのかもしれない。あるいは、9.113.11以後の現代に由来するのかもしれない。いずれにせよ、本書『環大西洋の想像力』は越境的視点により、国境を越え、海を渡ることで、これまでにない新しいアメリカン・ルネサンス像を私たちに与えてくれる。