Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:上田裕太郎(慶應義塾大学大学院修士1年)

「身体で感じるアメリカ文学」

 

ある日、私は授業の課題のために19世紀アメリカン・ルネサンスの小説を読んでいた。具体的な名前を出すと、フレデリック・ダグラスやハーマン・メルヴィルである。これらの作家の時代というのは歴史的に見ても、アメリカが自国の文学を形成しようとしていた時期であったのだから、課題として読み始める前に、当然のように私はこの時代の作家たちに対しては非常にローカルな「アメリカ文学」像を抱いていたのだ。ローカルな文学とは、その国の国民性・文化・言語と強い影響関係にあり、異なる文化圏の人間が読むと、若干の違和感を覚えてしまうという意味である。実際、アメリカの文学は、国民性が顕著に表れるように思われる。しかし、実際にアメリカン・ルネサンスの作品群に目を通して見ると意外や意外、不思議にも20世紀の文学以上に日本人の私が「なんとなく」共感できる部分が多かったのだ。フレデリック・ダグラスが扱う奴隷制など特に21世紀の日本に暮らす自分とは共通する部分が希薄だと思われたのにもかかわらず。

アメリカン・ルネサンスの作家にこうした「不思議な」共感を覚えたことがあるのは私だけではないだろう。今回取り上げる竹内勝徳・高橋勤両名による編著『環大西洋の想像力:越境するアメリカン・ルネサンス文学』という本は、漠然と感じるアメリカ文学、特にアメリカン・ルネサンス文学の持つ全地球的な側面の謎を具体的な言葉を用いて我々に提示してくれる本だと私は考えている。

本書の意義を一言でまとめるなら、冒頭に掲載されているポール・ジャイルズ氏による「アメリカ文学を裏返す」と言う言葉を用いるとしっくりくるだろう。アメリカ文学には「アメリカ」というローカルなイデオロギーの意味を探求する側面が付き物という伝統的な理解を裏返し、彼はメルヴィルの作品群などを例示しながら巧みにアメリカの全地球的側面をあぶりだす。

この本において、ポール・ジャイルズ含め多くの著者がメルヴィルの作品群を扱っている。その理由を考えてみると、まずメルヴィルは海洋小説を多く書いており、「海を渡る」ということがトランスナショナルの概念に繋がっていることは紛れもない事実である。しかし本書に掲載された論文を読み進めると、メルヴィルの作品でより示唆的なことは、さらに根底の部分、つまり異文化間の接触によって明らかになる身体の感覚であると解釈することができる。ポール・ジャイルズは地理の遠隔性に根差した「視差領域」を示しているが、実は視差領域とは相反するはずの物理的な身体の接触にも、空間の落差に由来する神秘的な側面が読み取れるように思えるのだ。

一例をあげよう。西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体:『白鯨』、『イスラエル・ポッター』を中心として」という論文において、その特徴が非常に強く押し出されている。ここで西谷氏はメルヴィルの作品の中のアメリカと他国(他者)において、単純な従属関係とそれに伴う対抗意識として読むのではなく、むしろその作品内の具体的な他者同士の身体的な接触を通じた相互の作用を読み込んでいる。この「身体」による文化的接触というものは確かにメルヴィルの作品の中で重要なテーマであり、そしてこれがアメリカン・ルネサンスの作家に感じる「なんとなく」共感できる、といった感覚の秘密を解き明かす。

勿論この本全体において身体的な接触、他者の意識と結び付けられているのはメルヴィルだけではない。他の作家もまた同じような意識を持つことは、このほかに収録されている論文からも読み取ることができる。例えば、より「ローカル」なイメージを持たれている作家・ホイットマンである。この詩人を論じた阿部公彦氏の論文で特徴的なのは、我々に非常に近い問題である二年前の震災のトラウマを冒頭であげたうえで文学におけるテクストの「親密さ」とそのメッセージの音量、つまり声の大きさ/小ささについて語っている点である。その中で阿部氏はアメリカ的個人主義を体現している、というイメージが定着しているホイットマンを再解釈する。ホイットマンが調節するのは、自身の声であり、その声の持つ危うさは、一定の意味をもったletter以上に身体的であると言える。すべての論考を取りあげることはできないが、食によって打ち出される自他の境界の曖昧性について論じた高野泰志氏や、イタリアでの芸術作品との対話を通し、混血性に関するホーソーンの人種観を論じた稲富百合子氏など、この本の著者たちは皆、本来遠い国であるアメリカに対する物理的な距離と神秘的な距離の曖昧性に注目していると私は考える。

本書の最大の読みどころは太平洋を隔たった我々にも身体の奥底で通じる感覚をアメリカ文学の中に見出しているところにほかならない。本書は、物理的な距離感を感じがちな我々の持つ「なんとなく共感できる部分」を説明してくれるのみならず、もともと「アメリカ」文学像を確立させたアメリカン・ルネサンス文学に新たな視座を与えている。これは昨今よく耳にするグローカルという用語にも通じるのだろうか。アメリカからみて外部の人間である自分と、アメリカ文学との距離を感じてしまったときに、この論文集を手に取ることは有意義だろう。時代・大陸を越えて航海する感覚を味わうにはうってつけの一冊といえる。