Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:青柳萌里(慶應義塾大学大学院修士1年)

揺らぐ「境界」―大国アメリカの不安と想像力

 

我々の住む日本という国家は98.5[i]が単一の民族で構成されている上に、移民政策を積極的に進めているという訳ではない。ガイジンという言葉に代表されるように、日本の多くの人にとって、国家の内と外の区別は良かれ悪しかれはっきりとしていると言えるだろう。それに対して、アメリカはどうだろうか。アメリカはコロンブスによって「発見」されて以来、移民によって成り立ってきた、複数の民族によって構成される国家である。そこでは外から来た者が新たな「アメリカ人」となりアメリカという共同体に参加する。こうした国家にあって、アメリカらしさ、アメリカらしい文学とはいったいどう定義されうるのだろうか。本書『環大西洋の想像力 越境するアメリカン・ルネサンス文学』のキーワードの一つとなっている「アメリカン・ルネサンス」という概念は、こうした疑問に答え、アメリカ文学を確立させようとする一つの試みであった。

本書は前置きとなるポール・ジャイルズ氏の特別寄稿・一部・二部・三部の四部分に分けて構成されている。各部はそれぞれ、特別寄稿「アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間」、各五つの論文からなる「第一部 太平洋世界の旅と交易」、「第二部 ニューイングランドの変容」「第三部 国家とエスニシティ」と段階を追った内容になっている。これらを通して主に貿易・経済・ナショナリズム・アイデンティティの観点から「越境していく国家横断的想像力」について纏められている。

この論文集を読んでまず初めに興味を抱いたのは「アメリカ文学」を形成しようと試みる場と時代、アメリカン・ルネサンスの概念を初めて考え出したマシーセンの意図性である。この創造は、アメリカという国家の境界を強化しナショナリスティックなアイデンティティの確立に寄与する目的でなされた可能性が高いと本書は指摘している。境界がアメリカの内と外を分けるものであるとするならば、アメリカン・ルネサンスはそうした境界を明白に定義しようとする試みに他ならないだろう。

しかし、冒頭のポール・ジャイルズ氏の講演にはすでにこうした境界定義の脆弱性が指摘されている。そこでは、アメリカの特徴=移民を受け入れて「世界」化しながらも一定のアイデンティティを保っていくよう自らを調整しなければならなかったこと、とされているからだ。外からの人間を常に流入させ、内を保つ国家であるアメリカはヨーロッパと異なり、常にその境界を揺るがせている。また、歴史的にはアメリカのアイデンティティはイギリスから分離することで確立した。そのため前書きのメルヴィルの言にある通り「圧政者を憎む者自身が圧政者にな」る時、つまりアメリカがイギリスの継承者―帝国になる時、未曽有の矛盾に突き当たることとなる。

こうしたアメリカの境界の曖昧さを第一部の高野泰志氏は、「食」の表象という観点から扱っている。ここでは「食」は自己と他者の境界を前提にすると共に、他者の取り込みという点で境界を曖昧にするものでもあるとされている。この図式は、移民を受け入れながらもアメリカらしさを保持しようとするアメリカと重なるように私には思われる。また西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体」では『白鯨』における身体の異種混交性が描かれている。『白鯨』において可能となるこうした異種混交が、イギリスとアメリカの境界を扱った『イスラエル・ポッター』では逆に不可能となるという展開は、アメリカの境界を考える上で非常に印象深い。その一方、竹内勝徳氏の論では、エマソンを通じて、英米両国のナショナリズムが人種混合体論や国家横断的経済の想像的空間の中で解体されていったことが示される。

第二部では高尾直知氏がフラーとオルコットの関係性を取り上げ、イタリアとアメリカ両国家における統一運動からオルコットが描いたアメリカン・リソルジメントを論じている。また村田希巳子氏は、イギリスから始まった産業革命が英米両国に大きな変化をもたらしたことを「移動」の観点から論じている。社会・経済の変化がアメリカの作家ホーソーンにも著作の地理的範囲拡大を容易にさせたのである。また高橋勤氏はその「経済と道徳―綿花をめぐる物語」の中で、エマソンが奴隷制の問題をいかにニューイングランドの世界観の中でメタファー化していったかを論じている。第二部からはアメリカの内と外の交感と連動が、社会経済の変化に伴い強まっていくことが読み取れるだろう。

 第三部では稲富百合子氏の「『大理石の牧神』における人種問題」において、アメリカの揺らぐ境界に対する不安は再び扱われている。人種的曖昧性への恐怖は、混血児のために帝国主義的文脈における白人の優位が失われることへの恐怖であると指摘されている。私にはこうした人種的曖昧性は同時に、内の人間と外の他者との間の境界が崩れる可能性を内包しているようにも見える。こうした境界が揺らぐ恐怖は、内部の他者からの復讐を描いたメルヴィルの作品を扱う大島由紀子氏の論にも扱われ、やがて小林朋子氏の『ブレイク、あるいはアメリカのあばら家』における地球規模に広がる移動経路において、その空間的広がりの中に消え失せる。

 残念ながら今回触れることができなかった論文も多くあったが、この論文集を読んで改めて感じたのはアメリカの境界を揺るがし、超えていく想像力のダイナミックさである。そして冒頭にも述べたように、アメリカという国家のアイデンティティは、「世界」を飲み込み、自身が「世界」となっていくことに根差していた。そう考えれば、この越境する想像力は、その過程の中で、今後も継続し続けるであろうことが予測される。この本では、個々の論文の視点がそれぞれの島となり、それらを読んでいくことで我々自身が移動するネットワークの中の主体として再現される。ダイナミックな想像力の点が、線となり大きな空間となる過程の旅を追体験するのに最適の一冊である。



[i] “The World Factbook”. Central Intelligence Agency. 2013 15 May. 2013 6 July. <https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ja.html>