Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:坂雄史(慶應義塾大学大学院修士1年)

裏返しのアメリカ文学

 

私が旅をするのは予見していたことが裏切られ新たな出会いをもたらしてくれることへの喜び、驚き、感動、そういった感情を味わいたいがためだ。竹内勝徳・高橋勤編『環大西洋の想像力』もそうした出会いを私にもたらしてくれた。昨今の文学研究においては、かけがえのない他者との出会い――その瞬間を記述することに労力が割かれているように感じる。

本書もそうした文脈の中に置くことができ、逆説的に他者との出会いは、自己にとっての参照点をもたらし、新たなアイデンティティの構築につながる。19世紀の技術の進展がもたらした移動手段の発達は大西洋を越えたそれまでにないダイナミックな移動を人々にもたらし、黒人と白人、異なるエスニシティの出会いをもたらし、越境、多民族性、グローバリズムという今日にもつながる問題を提示している。三部構成の本書は異なる人間同士の出会いに始まり、ヨーロッパからアメリカへという文化のダイナミックな移動にまで至る過程を15本の論文で描いていく。

冒頭に置かれているポール・ジャイルズの講演録はその試みの中心的な課題が「アメリカ文学を裏返す」ことにあるとすべての論文にある通奏低音を可視化させてくれる。「まったく異なる空間の地政学的落差」が作る領域の再定義は「アメリカ文学を裏返し、それを全地球規模に再定位する」試みであるとジャイルズの論文は教えてくれる。こうした視点をもってアメリカ文学を読み直すことはわたしたちのこれまで見てきた景色を離れ、「神秘的な視差空間」をわたしたちに再び現前させる。そして、文学作品を現在わたしたちが置かれているようなグローバリズムを導く実際の経済・地政学上の中にあった作品として捉え直す契機になる。「国家横断的」に文学へとアプローチすることで、これまで築かれてきたアメリカ文学史という制度に対して批判的な視座までも与えてくれる。

19世紀のヨーロッパの文化のヒエラルキーから見て文化後進国にあった新天地アメリカにいかにヨーロッパの文化を接ぎ木し、新しく誕生した民主主義国家にふさわしい独自の文化を形作っていくか。本書に収められた城戸光世氏の論文ではフラーのイタリア旅行記がイタリアとアメリカの文化をつないだことを論じ、竹内勝徳氏はエマソンの人種論から大西洋間の経済的移動までも視野に入れて、エマソンが苦労しながらもヨーロッパとアメリカをつないでいったことを論じる。

宗主国イギリスから独立した13植民地が、アメリカ合衆国として変容していく過程でアイルランド移民やドイツ移民を果敢に取り込み、多民族国家として大量の移民を受け入れ肥大化していき、ともすればその文化的アイデンティティを失いかねない状況は、今日のフロンティアを失ってもいまだに膨張を続ける帝国の姿が重なってくる。こうした多民族を抱えたアメリカという国家の像は、メルヴィルが『タイピー』や『白鯨』で描く、黒人や南洋諸島の人間まで含めた多様な人種から構成された船として表象されることを西谷拓哉氏の論は明らかにする。本書中でメルヴィルを論じる西谷氏の論と佐久間みかよ氏の論文が最初と最後に置かれているのは本書の構成の妙であろう。

高野泰志氏の論じる『アーサー・ゴードン・ピムの物語』において論じられるように、大西洋を越境するという冒険に繰り出す彼らを待ち受ける異人種との出会いや異なる文化との触れ合いは、当時の白人中心のヒエラルキーにひびを入れ、白人作家によって描かれたテクストが全く異なる人種のひとびとが行き交う大西洋航路の異人種たちのテクストとしてよみがえってくる。一つのテクストの中に異なる文化の可能性を読むという点では稲冨百合子氏の論がホーソーン『大理石の牧神』中に見出す古代ギリシア神話のピグマリオンの物語はテクスト中の異なる文化の存在を照射する。

アメリカン・ルネサンス期に文化人たちが取り組んだ課題には、新天地での新しい文化を作るうえで、民主主義国家にふさわしいというもうひとつの制約があった。ヨーロッパからの文化を受け継ぎつつも真に平等な国家と結びついた文化の存在が必要だったのである。多くの超絶主義者たちは奴隷制に反対しながらも、アメリカという国を空中分解させかねないこの繊細な問題に対し、慎重にならざるを得なかったことが飯野友幸氏のニューオーリンズでのホイットマン論、高橋勤氏のエマソン『イギリス国民性』論が読み取れる。また、本書の多くはアメリカ文学研究の大家マシーセンが定義したアメリカン・ルネサンス論に登場する作家を扱うが、中には小林朋子氏はディレイニーを論じることで本書に新たな色を添えている。

アメリカ文学を問い直すという試みは今に始まったことではない。これまでも私たちの常識としてきた文学史を問い直すことは繰り返し行われてきた。私たちに新しいテクストとの出会いをもたらす本書への旅は新たな文学史という大海への道標となり、予見できない後悔の可能性を示してくれる。