Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 遠藤容代(慶應義塾大学大学院博士3年)

納まりきらないことの魅力

 

「アメリカ文学」の歴史を考える上で、F. O. マシーセンの『アメリカン・ルネサンス(1941)が果たした役割の大きさは、誰もが認めるところであろう。マシーセンは、国家としてのアメリカの隆盛と軌を一にしながら、世界文学たりえるアメリカ文学の豊饒さを謳いあげた。その大著は、700ページにも及ぶ。しかし、文学研究の発展と共に、そこで取り上げられる作家たちの射程の狭さが、非難の対象となっていったのも、又、事実である。男性白人作家のみを取り上げたマシーセンの『アメリカン・ルネッサンス』は、女性作家たちや非白人作家たちの存在も考慮することを強く求められてきたのであり、その都度、射程は拡大されていった。そのような中、この度出版された竹内勝徳・高橋勤編『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネッサンス』は、マシーセン的なアメリカン・ルネッサンスに、新たにトランスアトランティックな視座を組み込んでいく著作である。

 竹内氏のまえがきにもあるように、本著の基調をなしているのは、ポール・ジャイルズ氏のトランスアトランティック研究である。ジャイルズ氏によって、大西洋をまたぐ英米の文学は、単なる対立関係から「互いを映し出す鏡」として再定位され、テクストに、より有機的なネットワークが与えられるようになった。ジャイルズ氏のこのようなナショナリティを超えて開かれるという、テクストのイメージは、本著に収められた氏の講演「アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間」(田ノ口正悟・渡邉真理子訳)にも、色濃く反映されている。   

このようなジャイルズ氏の講演を冒頭に据えた『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネッサンス』には、15本の論文が収められる。そして、氏のトランスアトランティック研究に沿いつつも、扱う作家やアプローチの多彩さ、トランスナショナルの射程の広さにおいて、その研究内容を質・量ともに深化させている。扱われている作家たちを例にとってみても、従来のアメリカン・ルネッサンス研究に厚みが増しているのが分かる。そこには、メルヴィル、ホイットマン、ホーソン、ポー、エマソンに加え、マーガレット・フラー、ルイーザ・メイ・オルコット、マーティン・ディレニーといった作家たちの名前が記されている。さらに、扱うテクストの範囲の拡大と共に、その一つ一つのテクストの可能性も、トランスアトランティックなネットワークに置かれることで押し広げられている。

「国境を越えて他者の視点や価値観を想像することで、よりダイナミックな文学テクストが成立すること」を基本的な考えとして据えつつ、各々の論文は、決して一枚ではないテクストや作家の在り方を明るみに出す。たとえば、城戸光世氏の「共和国幻想―マーガレット・フラーのヨーロッパ報告」や、高尾直知氏の「「新しい霊がぼくにはいって住みついた」―オルコット『ムーズ』とイタリア」では、それぞれの作家に対し、いかにイタリアがトランスナショナルに影響を与えたかを論じて見せる。さらに、このトランスナショナルな問題意識に加え、城戸氏の論文では、「イタリア」を語る際の旅行記のコンベンションの問題が、高尾氏の論文では、主人公シルヴィアの小女性 (a girl)と女性性 (a woman)の揺らぎの問題が、それぞれ大変興味深く、論じられている。

一方、西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体―『白鯨』、『イスラエル・ポッター』を中心として」と高野泰志氏の「トランスアトランティック・アペタイト―『アーサー・ゴードン・ピムの物語』における食の表象」は、「他者」に対するアメリカ人作家たちの意識がどのように作品中に描出されているかを暴き出す。西谷氏が注目するのは、メルヴィルの身体表象である。西谷氏は、「トランスナショナルな身体感覚」を体現して見せるイシュメールとクイークェグの『白鯨』と、イギリス人になりきれない、つまり、ナショナリティを超えることのできない『イスラエル・ポッター』を、並べて論じることで、「果たして本当にトランスナショナルな身体を獲得することができるのか」という問いを投げかける。高野氏の論は、食のもつアンビバレンスさ―自己を「食べる主体」と「確定することで、他者を支配する」側面と、「他者」を自身の体内に取り入れていくことで「自他の境界が揺れ動」いてしまう側面―に注目しながら、ピムの白人性が揺れ動くさまを刺激的に論じている。

ここでは、以上の論を主に取り上げてきたが、この他にも、ホイットマンの詩学・語りの「弱さ」についての論(阿部公彦「ホイットマンの音量調節」)や、マシーセンの『アメリカン・ルネッサンス』自体を取り上げた論(井上間従文「帝国の「ほつれた縁」、または、生政治の「孤島」たち―マシーセンとオルソンの『白鯨』論」などが本著には収められている。収録された計15の論文は、ジャイルズ氏のトランスアトランティックを基調としてまとめられると同時に、各々の個性も存分に際立つものとなっている。自身の興味のおもむくままに、1章ずつ読んでいくのもいいだろう。トランスアトランティック研究をより深めたい人にも、これから始めようとする人にも、手に取ってもらいたい、間口の広い著作となっている。