Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 細野香里(慶應義塾大学大学修士2年)

枠組みのその先へ―融解する国家と文学研究の今後

 例えば、書店の海外文学コーナーに足を運んでみて欲しい。アメリカ文学、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学……。万国旗のように並んだ仕切りの表示を見ながら、これでは単体の仕切りの作られていない国は存在を認められていないみたいだ、とは思わないだろうか。自国文学の擁立は国家形成における重要なステップである、という政治家めいたスローガンが、頭を過ぎるかもしれない。では、文学と国家の関係性とはいかなるものか。

 FO・マシーセンは、1941年の著作『アメリカン・ルネサンス』において、19世紀中葉のアメリカ人作家による文学活動を「アメリカン・ルネサンス」と呼んだ。経済的成長を遂げ、国際社会での存在感を強めていた当時のアメリカにおいて、自国の文化的成熟と国家の理念である民主主義を同時に打ち出すマシーセンの仕事が為されたことはごく自然な成り行きと言えよう。しかし、白人男性作家のみを取り上げ「民主主義のアメリカ」を裏書きすることを念頭に置いたマシーセンの読みは、アメリカ文学研究に一つの素地を提供すると同時に、現在に至るまで見直しと検証の対象になってきた。

 『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネサンス文学』もまた、マシーセンの提唱した「アメリカン・ルネサンス」を捉え直す一連の批評活動に連なる試みである。そしてこの論文集のもう一つの柱が、タイトルにある通り「環大西洋」というキーワードだ。「トランスナショナル」という概念がアメリカ文学批評の俎上に乗せられて久しいが、本作品は中でも、マシーセンが取り上げたエマソン、ソロー、メルヴィルホーソーン、ホイットマンの5人を含むアメリカン・ルネサンス期の作家達が、当時の大西洋を跨る人の流れや経済的・政治的影響関係をいかに吸収し、「越境的想像力」を各々の文学的営みに反映させていったかに着目している。シドニー大学教授であるポール・ジャイルズ氏による特別寄稿を皮切りに、3部構成、全15編の論考を収めた大部の著作である。第1部「大西洋世界の旅と交易」では、大西洋交易やアメリカ国内の経済・交通網の発達に伴う作家達の移動、そしてその作品への影響が分析される。第2部「ニューイングランドの変容」では、大西洋を跨いだ影響関係が、アメリカ国内、特にニューイングランドを中心とした文学にいかなる変容をもたらしたのかを追う。第3部「人種とエスニシティ」では、大西洋を挟んだ作品世界における人種、異文化、移民の表象を読みとることを通じ、「エスニシティの側から見た国家」の姿、そしてそこから立ち上がる「新たな(脱)国家観」を探ることが目的とされ、現在のアメリカ文学研究における主要トピックの一つである群島論が取り上げられている。

 異なる観点に立脚した各部において、イタリアをテーマに据えた論文が奇しくも1編ずつ含まれているのは興味深い。19世紀アメリカの女性知識人とイタリアとの関わりは、近年盛んに論じられているテーマであるが、この3編を通して、本書が問い直している文学と国家の関係性を垣間見ることができる。第一部に収録された城戸光世氏による「共和国幻想―マーガレット・フラーのヨーロッパ報告」では、19世紀中葉を代表する知識人であったフラーの、『トリビューン』紙海外特派員としての1846年から1850年にかけてのイタリア滞在を再評価する試みが為されている。革命運動の只中にあったイタリアでの滞在が、いかにフラーの革命支持の思想を導き出したか、そして自国であるアメリカに対する批判へどのように反映されているかが考察されている。しかし、大西洋を越え新たな見地を得たフラーが再びアメリカの地を踏むことはなく、彼女は帰国途上での海難事故で命を落とす。その続きは、彼女の思想の影響を受けたルイザ・メイ・オルコットを取り上げた第二部の高尾直知氏による「『新しい霊がぼくにはいってすみついた』―オルコット『ムーズ』とイタリア」に引き継がれている。高尾氏は、南北戦争従軍看護師としての経験を綴った1846年のオルコットの著作『病院のスケッチ』での描写に、イタリア特派員として現地の革命の様子を伝え、結果的に命を落としたフラーへのオマージュを見てとる。こうして1861年のガリバルディによるイタリア統一南北戦争の勃発という、大西洋を跨いだ政治的背景を受け、フェミニストとしての先達者であるフラーに自身を重ねることで、オルコットが南北戦争を男女の社会関係変革の運動を促進する契機と捉えていたことを喝破する。国家間の境界は、作家の移動や政治的影響関係によってあいまいな、透過性のあるものになってゆく。

上記2本の論考が、他者としての「国家」間の対比と影響関係、つまり、アメリカという国家が出会った、大西洋の向こう側に位置する他者としてのイタリアという視座に立っていたのに対し、第3部に収められた稲富百合子氏による「『大理石の牧神』における人種問題―ミリアムを中心として」は、国家の内部に存在する他者、特に人種的他者に焦点を置いている。イタリアという異国の地を舞台に、人種的他者の影を幾重にも描きこまれた混血のミリアムを通じて、ホーソーンがアメリカ人読者に何を提示したのかを分析している。ここでは、内側に存在する他者によって、マジョリティによって構築された国家という枠組みが内部から瓦解していくさまが見て取れる。

今回はイタリアというキーワードをもとに3本の論考を取り上げて紹介したが、これらを通じ、もはや国家という枠組み自体の解体なくしては文学を語ることのできない時代に突入したことがわかるだろう。言うまでもなくここで言及することの叶わなかった論文各々が、独自の切り口でアメリカン・ルネサンスと環大西洋を巡る問題意識に新たな光を投げかけている。そして、上記3本の論考の関係性のように、併せて読むことによって読者にさらに魅力を増幅させた学術的示唆を与えてくれる。国家という枠組みから逃れ、さらにその枠組み自体を問い直してゆく文学のあり方がここにある。(2456字)