Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:大島範子(慶應義塾大学大学修士2年)

揺らぐアメリカ

 

 竹内勝徳・高橋勉の編集による本書『環大西洋の創造力―越境するアメリカンルネサンス文学』は、かつてF. O. マシーセンが1941年に「アメリカン・ルネッサンス」として位置付けた時代、すなわち、19世紀半ばのアメリカ文学に着目する。批評対象として挙げられるのは、メルヴィルホーソーン、ホイットマンなどマシーセン自身が定めた所謂「正典」は勿論のこと、マーガレット・フラーやポー、時代は下りマシーセン本人、そしてマシーセン直系の弟子であるところのオルソンに至るまで、そうそうたる顔ぶれである。

 無論、マシーセンが提示した文学史観への様々な観点からの批判が加えられることになって久しい。その流れにおいて必然的に、「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体が変質し、時代区分の面から見てもまたそこに含む作家の面でも拡張され、境界線も曖昧にされていくことになったのだが、本書はあえて、その批評対象を、マシーセンが当初想定した「アメリカン・ルネッサンス」に近い範囲に限定し、その上で、そこにマシーセンが確固たるものとして見た「アメリカ的なるもの」に実は大いに含まれていたナショナルアイデンティティの揺らぎを考察している。この揺らぎこそが、本書のタイトルにもなっている、若きアメリカの「環大西洋の想像力」である。既に出来上がった国家としての不動の確信よりはむしろ、周囲の国々との関係(あるいは、未だ出会わぬものとの「想像される」関係)の中で規定される不安定な足場から−−より正確に言うなら「不安定さ」という足場から、作家たちがアメリカという国家を想像/創造していったその過程を、本書からは生き生きと感じることが出来るだろう。

 ポール・ジャイルズ氏による特別寄稿『アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間』(田ノ口正悟・渡邉真理子訳)からから始まり、本書は三部構成から成る。第一部「大西洋世界の旅と交易」では、作家あるいは作中登場人物のトランスナショナルな「移動」に着目し、その移動の中で出会う異なる文化がいかに「主体」たる作家・作中人物のアイデンティティを揺るがすかを考察している。飯野友幸の『ニューオーリンズのホイットマン』では、アメリカ南部もまたある種の「異国」として扱われていることが意表を突く。19世紀中ごろのニューオーリンズは、ニューヨークなどよりも遥かに人種と文化の混淆の凄まじい、そして国境の曖昧なある種の「異国」だったのである。第二部「ニューイングランドの変容」では、アメリカ北部の文化の中心地であったニューイングランド自体が他国との交流を通じて変化していく中で、作家たち自身の経験した曖昧さや変化を追う。とはいえ、ここでもニューイングランド派とは呼ぶことの出来ない南部出身作家ポーの『アッシャー家の崩壊』がエマソンと並べて論じられていていることに注目したい。第三部「国家とエスニシティ」においては、プロテスタンティズムに基づく白人の国家アメリカから見た国内の他者―ユダヤ人、ネイティヴアメリカン、黒人、アイルランド人―の作品における表象、さらに国内の移民から作家たちが想像するアメリカ以外の国家の表象を探る。想像されたこれら他国家との関係において(場合によっては時間・場所共に大西洋を隔て遠く離れた国家にアメリカを仮託しながら)、あらためてアメリカという国家自身の姿が再び想像されるのである。ここにおいては、井上間従文が『帝国内の「ほつれた縁」、または、生政治の「孤島」たち』で、「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体を後代になって作りあげたマシーセンその人、さらにその弟子たるオルソンを扱っていることが興味深い。全体としてはマシーセンの定めた範囲に則りながら、各部すべてがそこから逸脱する作家・研究家を対象として含んでいるのである。「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体が最初から含んでいた、確固としているように見せつつもすぐにでも境界線から雪崩をうって広がり出しそうな不穏さが、このような構成からも感じられる。

 ここでは全てに触れることは出来ないものの、本書に収録される論考全てに共通して言えるのは、確固たる「主体」も、完全なる「他者化」「客体化」も(たとえそうであろうと、あるいはそうしようと志向したとしても)有り得ない、という立場であろう。想像上の他者との関係性において主体は規定され、主体の想像を逸脱していく現実の他者によって主体は絶えず脅かされ、揺らぐ。変質以前の主体さえ、変質以後の主体にとっては想像上の他者なのである。事実、アメリカという国家はその後、本書に収録される『メルヴィルとトランスナショナルな身体』において西谷拓哉が指摘するように、西漸運動から始めてやがて全世界への影響力を高め超大国としての地位を築いていくその過程で、「世界をアメリカ化」しながら同時に「アメリカを世界化」していくことになる。アメリカが他者を飲み込んで行きながら自己を拡張していった歴史はそのまま、アメリカが、飲み込んだ他者によってそのアイデンティティを変質させられていった歴史であると見ることもできるのだ。

 そしてまた、当然のごとく、「19世紀中ごろのアメリカ」も、21世紀の日本に住んでいる人間にとっては「他者」であり『客体』である。本書はそのような我々に、揺らぐ「他者」の一端を、揺らぎをそのままに捕まえる手助けをしてくれる。それだけではなく、現代のアメリカを、さらに、明らかにアメリカという国家の文化との強い関わりを意識せざるを得ない我々自身の国家を見る上でも、アメリカが国家としての黎明期にあった時代にどのような「不安定さ」に基づいていたかを、作家たちの視点からもう一度考えてみることは、非常に意義のあることと言えるだろう。