Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:田ノ口正悟(慶應義塾大学大学院博士2年)

アメリカ古典文学の「味」

 「何度食べても美味しい。それが古典といわれる作品です。」高校時代、国語の授業中にある先生がこう言っていた。耐えられない眠気のために授業中は意識を飛ばしてしまっていることが度々あるわたしだったが、10年以上経った今でも不思議とこの言葉は覚えている。本来は読み物である文学作品を、食べ物と重ねて表現していたことがなんだかおかしかったのだろう。この言葉を改めて実感させてくれたのが、竹内勝徳氏と高橋勤氏による『環大西洋の想像力』である。

 本書が提起する新たな観点は、アメリカ文学における古典作品はいかにして国境を越えるかということである。そもそもアメリカ古典文学というのは、F. O. マシーセンという批評家によって1940年代に規定された。彼は、民主主義というアメリカの理念を文学で体現することができたエマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマンという5人の作家を選定し、彼らが活躍した19世紀中葉をアメリカ文学史における初めての黄金時代として、アメリカン・ルネサンスと名付けた。

 彼の定義はその後、アメリカ文学研究において長年受け継がれていった。しかし、1980年代になると、階級やジェンダー、それに人種といった様々な観点から、この定義は度々再考を迫られるようになる。なぜなら、彼の定義はアングロサクソン系白人プロテスタントWASP)の男性作家に限定されていたからだ。この意味で、アメリカ古典文学は、1940年代の確立から80年代の再考を経て、すでに何度も咀嚼されてきたと言える。では、もう全てを語り尽くしたのかというと、そんなことはない。『環大西洋の想像力』は、文学の持つ「越境的な想像力」という新たなテーマを持ち出してアメリカン・ルネサンスを再考する

 本書の見所はずばり、大西洋を越えた先にあるヨーロッパを志向するアメリカ人作家の意識が、いかにアメリカが抱えていた政治的問題や文化的環境と連動していたのかを明らかにした点にある。本書のコンセプトである越境するアメリカ文学の視座を提供するのは、冒頭に収められたシドニー大学教授ポール・ジャイルズによる論考だ。彼は、マシーセンから新歴史主義にいたるアメリカ文学研究に通底する問題を明らかにする。すなわち、従来の文学研究が考察対象を国境の内部に限定してきた結果、文学の持つ国家横断的想像力がないがしろにされてきたというのだ。

 『環大西洋の想像力』は、ジャイルズの示したアメリカ文学研究における根本的な問題に対処すべく、15名もの日本人研究者が様々な論を展開する。まさに「食」という観点に注目しながら、19世紀中葉の白人が抱えた主体の揺らぎを論じてみせたのは高野泰志氏による「トランスアトランティック・アペタイト」だ。高野氏はエドガー・アラン・ポーによる『アーサー・ゴードン・ピムの物語』から、大西洋で繰り広げられるおどろおどろしい人肉食の恐怖を取り上げることで、食べるという行為がいかに食べる主体としての白人と食べられる客体としての他者を峻別するか、そして逆に、その両者を混乱させるのかを明らかにする。

 文学における越境を論じる本書が魅力的なのは、実際に越境体験があるかどうかがいかに作品に影響を与えているのかに着目してくれるからだ。佐久間みかよ氏による「マン島の水夫、『孤島に生まれて』」は、メルヴィルの作品を中心にしながら、当時の社会の中心にいたWASPのアイルランド表象を探る。氏の論考が示唆的なのは、WASP19世紀半ばに急増したアイルランド人移民に対して脅威を感じていたのみならず、ノスタルジアを感じていたという点にある。彼らの意識の中では、アイルランドの「緑」あふれる大地はアメリカを建国したピューリタンたちの故郷であり、そして彼らは、その大地に自身のルーツを見い出したのである。

 行ったことのない土地に自身の故郷の姿を見つけようとするアメリカン•ノスタルジアを論じた佐久間氏に対して、城戸光世氏による「共和国幻想」は海を越えて自らイタリアへと向かった女性作家マーガレット・フラーを扱う。売れっ子の新聞記者であり社会改良運動家でもあったフラーは1846年にアメリカを出て、イギリスとフランスを視察した後でイタリアに到着する。フラーによるその視察の報告では、自由と平等の共和国を実現しようと崇高な理念に燃えるイタリアが好意的に報じられていたが、それと同時に、アメリカの共和制への堕落を戒める内容も見られた。城戸氏の論考は、フラーの「ヨーロッパ報告」というこれまで顧みられることのなかった作品に焦点を当てることで、アメリカ古典文学研究にさらなる新味を加えてくれる。

 ここでは残念ながら触れることができなかった批評も多いが、そのどれもがアメリカ古典文学の想像力がいかに国境を越える力を秘めていたのかを見事に論じてくれている。エマソンやホーソーン、それにホイットマンといったマシーセンの定義に選ばれた古典作家の再評価から、その定義を再考しようとするようなオルコット論に至るまで、本書は何度食べても美味しい古典文学の味を存分に語ってくれる。