Cafe Panic Americana Book Review

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書評 遠藤不比人編『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)  評者:小泉由美子(慶應義塾大学大学院博士課程1年)

日本人を演じる日本人 

 

  わたしが敬愛してやまない作家・色川武大は、『麻雀放浪記』や『狂人日記』が比較的よく知られ、博打やナルコレプシーのイメージが強いけれども、なにより、少年期からアメリカ映画にどっぷり浸かっていた人物だった。彼は1987年から『週刊大衆』で「色川武大の御家庭映画館」を連載。仏独伊の作品も含まれるが、主たるはアメリカ映画が対象だ。ビデオコレクターとしての色川を知る人は多い。しかし、アメリカの文化の日本へ浸透は、戦後の高度成長期以降、ジーンズやマックやスタバとともにあったと、ただ漠然と捉えていたわたしにとって、戦前にもアメリカ映画が流入し、色川を長く魅惑していたこの事実を知ったとき、それは誠に大きな驚きであった。

  そう、それはまさに、このたび彩流社より刊行された『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(遠藤不比人編)が説く、日本に潜む「アメリカの影」だった。本書は、日本人という表象の構築性を前提にし、環太平洋の視点から再読する。その際、開国前夜から戦後冷戦期を経て90年代までを貫く、非常に長いスパンを設定しながら、海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャーという四つのテーマに、鋭利に切り込んでいる。四部構成、各パートに二つ、計八つの論考が収録される。取り上げられるのは、『ロビンソン・クルーソー』を内面化させ、ジャパニーズ・ロビンソンの如くアメリカへと漂流・冒険した田中鶴吉と小谷部全一郎。忘れられた海洋作家・米窪満亮。英文学者の福原麟太郎福田恆存、作家の川畑康成、三島由紀夫。あるいは、昭和の喜劇王・古川緑波に、ポピュラー音楽ピチカート・ファイヴ。これら対象の多様さも、本書の大きな魅力の一つと言えるだろう。

  その中でも、ここでは三つの論文に注目したい。日比野啓による「『解つてたまるか!』を本当の意味で解る為に――福田恆存の「アメリカ」」(第二部)、遠藤不比人による「症候としての(象徴)天皇とアメリカ――三島由紀夫の「戦後」を再読する」(第三部)、中野正昭による「アメリカを夢見たコメディアン――古川緑波のアメリカニズム」(第四部)である。というのも、これら三つの論考は、日本人表象の虚構性とアメリカへの愛憎をより前景化させているように感じるからだ。

日比野論文は、1968年の金嬉老事件から着想された福田恆存の演劇『解つてたまるか!』を取り上げる。多くの場合、本作はわかりやすい社会諷刺喜劇とみなされる一方、日比野は、諷刺とも喜劇とも言えない「奇妙さ」に目を留め、むしろ「解りやすくない」作品として問題視する。その際、本作の間テクスト性を詳らかにするとともに、福田による平和主義批判に潜むアメリカへの愛憎を暴露し、「原爆」や「贋物」が孕む問題を提示しながら、「解らなさ」を解るための案内図を読者に示してくれる。

  遠藤論文は、三島由紀夫を扱う。もはや三島の国粋主義は、割腹自殺も相まって、自明であるかに見える一方、その国粋主義と、三島のテクストにおけるカタカナの多用という奇妙な矛盾を突くことで、そこに潜在する「アメリカの影」を照射する。フロイトの去勢の論理を参照しながら、三島の象徴天皇が孕む、否定と承認の二重性へと至る論旨の進みは、この上なく刺激的だ。

  最後に言及したいのは、中野論文だ。戦前にもアメリカの映画が上演され、多くの人々を魅了していたことを、昭和の喜劇王・古川緑波の伝記を参照しながら、論証してくれた。演出家「緑波」から、喜劇王「ロッパ」へと至る軌跡を追いながら、「アメリカニズムの舞台化と日本化」を検討する。しかし、ここで敢えて疑問を呈すならば、アメリカニズムの日本化とは、一体何だろうか? 中野論文が、「緑波=現実」「ロッパ=虚構」と捉えていることを考慮すれば、アメリカニズムの日本化とは、あくまで虚構化だったのではないか?それは翻って、本書を貫くテーマ「日本人表象の構築性」と共鳴する。

  中野論文が参照する『古川ロッパ昭和日記』の戦前篇が世に出たとき、色川は、その刊行を祝すレビューを『文芸春秋』に寄せている。浅草の「へんな連中」を綴った『あちゃらかぱいッ』や『なつかしい芸人たち』の書き手である色川が、ロッパの全盛期にもどっぷり浸かっていたのは言うまでもない。後者収録の「ロッパ・森繁・タモリ」では、殿様気質で駄ジャレ好き、飽食たたって糖尿病、戦後、精彩を欠き、61年、「あっけなく」亡くなったロッパの姿を、色川流のあたたかく鋭い視点で書き上げる。色川によれば、ロッパは、戦時中、カタカナ名禁止のため、「緑波」に統一していたそうだ。そうであるならば、戦中以降、「現実としての緑波」にも、虚構とアメリカの影が潜む。

  「アメリカの影」は、日本人に日本人を演じさせてきたのだろう。とはいえ、本書は、日本人表象への「影」の混入を批判するのではなく、むしろ、その雑種性を擁護する。「日本人」といえど自明でない。目の醒めるような思索の海を求めて、ぜひともご一読していただきたい。