Cafe Panic Americana Book Review

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書評 遠藤不比人編『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)  評者:上田裕太郎(慶應義塾大学大学院修士課程2年)

公平「有」私な日本像

 

 洋食屋でサラダを頼む時、「ドレッシングは和風と洋風どちらにしますか?」と聞かれたことは誰でも一度はあるだろう。選択に迷った時ほど、しばしば和風ドレッシングを頼みたくなってしまうのは私だけではないはずだ。「ああ和風が美味しい、やはり自分は日本人だなあ」と呟くものもいるだろう。その選択には母国への主観があり、その像を客観的に捉えることは難しい。ドレッシング選択の時はそれでいいが、和洋の観点で文化や社会について論じるときはそうはいかない。かといってただ客観的に和風ドレッシングはカロリーが・・・のように数値的に評するだけでも面白くない。そこで大切なのは公平「有」私な態度だと私は考える。

海外の文化・社会への大きな造詣と下敷きがあればあるほど、最終的に関心は「じゃあ母国はどうだ」という方へ向かうことが多い。他国を見ることで得た客観性と母国をみる主観性の同居、そこに公平「有」私な態度が生まれるといっても過言でない。その点で遠藤不比人編の『日本表象の地政学』における日本像は重要である。というのも遠藤含め本書に執筆している論者たちは英米文学・文化の研究者であり、言うなれば「洋」のプロフェッショナルたちである。それぞれの論者は、英米文学・文化研究で長らく積み重ねた公平で綿密な視点とともに、ルーツである日本文化について私的に楽しんで書いているように思える。本書の読者たちは、著者たちがアカデミックな意味では専門分野ではない「日本」をいかに料理するかという公平「有」私な底力を目にすることになる。その快感は本書でしか味わえない。

 本書は四部構成で、「海洋」「原爆」「冷戦」「ポップカルチャー」と分けられ、それぞれに二つずつの論文をおさめている。目次を見るだけでも非常に幅広い範囲をカバーしており、誰もがどこかにアンテナが立つようになっているのは編者の構成力の高さを示している。第一部の「海洋」は吉原ゆかりと脇田裕正によるもので、環太平洋を越えた日本とアメリカの関係性によってみえてくる日本の遅れてきた帝国主義の萌芽を論じる。第二部「原爆」では日本表象の重要な転換点である原子爆弾へのある意味フィクション的な態度について、斉藤一は英文学者福原麟太郎の沈黙を通して、日比野啓は福田恒存の戯曲『解つてたまるか!』を通して論じている。第三部「冷戦」では、冷戦という背景の下で「伝統」的な日本像とその脱政治的なレトリックについて、越智博美は川端康成、遠藤不比等三島由紀夫という、ともにしばしばカタカナ書きされる作家を取り上げている。

ここまで紹介してきた論はどれも示唆に富んでいる。公平「有」私という点で特に興味深いのは第四部「ポップカルチャー」だ。個人的嗜好に左右されがちな難しいテーマについて中野正昭と源中由記はそれぞれに非常に緻密な議論をしている。源中の「仏作って、魂を探す─ピチカート・ファイブと日本のポピュラー音楽の真正性」では、音楽ファンにはなじみ深い名前が沢山登場し、フックとして読者をひきつける。論自体はピチカート・ファイブの楽曲に対する、「フィリーソウルなどのアメリカ音楽の真似」、「表面だけまねてソウル入れず」という批判を出発点に、小西康陽山下達郎の対置を大筋として論じている。しかしただ対置するだけでない。例えば双方のエンジニアがかの吉田保だったなどの共通点を挙げるなど細部にも注目している。また筆者は、山下とその兄貴分的な存在である大滝詠一細野晴臣なども同様に先達の英米ポップス・ソウルを系譜的な視点で「編集」しており、実際彼らの立場はそう簡単でないことも付け加える。渋谷系との類似と断絶についての考察は筆者の理解の深さを示しているといえる。この論文を貫くのは、環太平洋的な観点での考察と、名前を挙げられる音楽家たちへの深い愛であり、読んで楽しい論文だ。

一方、中野正昭は「アメリカを夢みたコメディアン─古川緑波のアメリカニズム」にて「昭和の喜劇王」と称された古川緑波の知られざる姿を明らかにする。伝記的に追いながら、一貫して緑波には当時敵国だった英米への「憧れ」があったことを緻密に述べていく。そのうえで憧れのアメリカを模倣するだけでなく、「恐妻家」、「狭い乍らも楽しい我が家」というなじみ深い日本的なモチーフと「モダニズム文化」を結び付けていく緑波の姿が論じられる。本論文は緑波の魅力が存分に引き出されており、読み終わると、彼について詳しくなったような気を起こさせてくれる。

本書の公平「有」私な議論によって、現われる多様な日本像は、我々が今まさに直面する諸問題にも通じており、論者たちも共通してそのような問題意識を持っていることがうかがえる。誰しもが多かれ少なかれ「洋」に触れる昨今こそ、今後自分たちが「日本」をどうとらえていくかは重要であり、そのヒントを示してくれるという点でお勧めの一冊である。