Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 遠藤容代(慶應義塾大学大学院博士3年)

納まりきらないことの魅力

 

「アメリカ文学」の歴史を考える上で、F. O. マシーセンの『アメリカン・ルネサンス(1941)が果たした役割の大きさは、誰もが認めるところであろう。マシーセンは、国家としてのアメリカの隆盛と軌を一にしながら、世界文学たりえるアメリカ文学の豊饒さを謳いあげた。その大著は、700ページにも及ぶ。しかし、文学研究の発展と共に、そこで取り上げられる作家たちの射程の狭さが、非難の対象となっていったのも、又、事実である。男性白人作家のみを取り上げたマシーセンの『アメリカン・ルネッサンス』は、女性作家たちや非白人作家たちの存在も考慮することを強く求められてきたのであり、その都度、射程は拡大されていった。そのような中、この度出版された竹内勝徳・高橋勤編『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネッサンス』は、マシーセン的なアメリカン・ルネッサンスに、新たにトランスアトランティックな視座を組み込んでいく著作である。

 竹内氏のまえがきにもあるように、本著の基調をなしているのは、ポール・ジャイルズ氏のトランスアトランティック研究である。ジャイルズ氏によって、大西洋をまたぐ英米の文学は、単なる対立関係から「互いを映し出す鏡」として再定位され、テクストに、より有機的なネットワークが与えられるようになった。ジャイルズ氏のこのようなナショナリティを超えて開かれるという、テクストのイメージは、本著に収められた氏の講演「アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間」(田ノ口正悟・渡邉真理子訳)にも、色濃く反映されている。   

このようなジャイルズ氏の講演を冒頭に据えた『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネッサンス』には、15本の論文が収められる。そして、氏のトランスアトランティック研究に沿いつつも、扱う作家やアプローチの多彩さ、トランスナショナルの射程の広さにおいて、その研究内容を質・量ともに深化させている。扱われている作家たちを例にとってみても、従来のアメリカン・ルネッサンス研究に厚みが増しているのが分かる。そこには、メルヴィル、ホイットマン、ホーソン、ポー、エマソンに加え、マーガレット・フラー、ルイーザ・メイ・オルコット、マーティン・ディレニーといった作家たちの名前が記されている。さらに、扱うテクストの範囲の拡大と共に、その一つ一つのテクストの可能性も、トランスアトランティックなネットワークに置かれることで押し広げられている。

「国境を越えて他者の視点や価値観を想像することで、よりダイナミックな文学テクストが成立すること」を基本的な考えとして据えつつ、各々の論文は、決して一枚ではないテクストや作家の在り方を明るみに出す。たとえば、城戸光世氏の「共和国幻想―マーガレット・フラーのヨーロッパ報告」や、高尾直知氏の「「新しい霊がぼくにはいって住みついた」―オルコット『ムーズ』とイタリア」では、それぞれの作家に対し、いかにイタリアがトランスナショナルに影響を与えたかを論じて見せる。さらに、このトランスナショナルな問題意識に加え、城戸氏の論文では、「イタリア」を語る際の旅行記のコンベンションの問題が、高尾氏の論文では、主人公シルヴィアの小女性 (a girl)と女性性 (a woman)の揺らぎの問題が、それぞれ大変興味深く、論じられている。

一方、西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体―『白鯨』、『イスラエル・ポッター』を中心として」と高野泰志氏の「トランスアトランティック・アペタイト―『アーサー・ゴードン・ピムの物語』における食の表象」は、「他者」に対するアメリカ人作家たちの意識がどのように作品中に描出されているかを暴き出す。西谷氏が注目するのは、メルヴィルの身体表象である。西谷氏は、「トランスナショナルな身体感覚」を体現して見せるイシュメールとクイークェグの『白鯨』と、イギリス人になりきれない、つまり、ナショナリティを超えることのできない『イスラエル・ポッター』を、並べて論じることで、「果たして本当にトランスナショナルな身体を獲得することができるのか」という問いを投げかける。高野氏の論は、食のもつアンビバレンスさ―自己を「食べる主体」と「確定することで、他者を支配する」側面と、「他者」を自身の体内に取り入れていくことで「自他の境界が揺れ動」いてしまう側面―に注目しながら、ピムの白人性が揺れ動くさまを刺激的に論じている。

ここでは、以上の論を主に取り上げてきたが、この他にも、ホイットマンの詩学・語りの「弱さ」についての論(阿部公彦「ホイットマンの音量調節」)や、マシーセンの『アメリカン・ルネッサンス』自体を取り上げた論(井上間従文「帝国の「ほつれた縁」、または、生政治の「孤島」たち―マシーセンとオルソンの『白鯨』論」などが本著には収められている。収録された計15の論文は、ジャイルズ氏のトランスアトランティックを基調としてまとめられると同時に、各々の個性も存分に際立つものとなっている。自身の興味のおもむくままに、1章ずつ読んでいくのもいいだろう。トランスアトランティック研究をより深めたい人にも、これから始めようとする人にも、手に取ってもらいたい、間口の広い著作となっている。

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:坂雄史(慶應義塾大学大学院修士1年)

裏返しのアメリカ文学

 

私が旅をするのは予見していたことが裏切られ新たな出会いをもたらしてくれることへの喜び、驚き、感動、そういった感情を味わいたいがためだ。竹内勝徳・高橋勤編『環大西洋の想像力』もそうした出会いを私にもたらしてくれた。昨今の文学研究においては、かけがえのない他者との出会い――その瞬間を記述することに労力が割かれているように感じる。

本書もそうした文脈の中に置くことができ、逆説的に他者との出会いは、自己にとっての参照点をもたらし、新たなアイデンティティの構築につながる。19世紀の技術の進展がもたらした移動手段の発達は大西洋を越えたそれまでにないダイナミックな移動を人々にもたらし、黒人と白人、異なるエスニシティの出会いをもたらし、越境、多民族性、グローバリズムという今日にもつながる問題を提示している。三部構成の本書は異なる人間同士の出会いに始まり、ヨーロッパからアメリカへという文化のダイナミックな移動にまで至る過程を15本の論文で描いていく。

冒頭に置かれているポール・ジャイルズの講演録はその試みの中心的な課題が「アメリカ文学を裏返す」ことにあるとすべての論文にある通奏低音を可視化させてくれる。「まったく異なる空間の地政学的落差」が作る領域の再定義は「アメリカ文学を裏返し、それを全地球規模に再定位する」試みであるとジャイルズの論文は教えてくれる。こうした視点をもってアメリカ文学を読み直すことはわたしたちのこれまで見てきた景色を離れ、「神秘的な視差空間」をわたしたちに再び現前させる。そして、文学作品を現在わたしたちが置かれているようなグローバリズムを導く実際の経済・地政学上の中にあった作品として捉え直す契機になる。「国家横断的」に文学へとアプローチすることで、これまで築かれてきたアメリカ文学史という制度に対して批判的な視座までも与えてくれる。

19世紀のヨーロッパの文化のヒエラルキーから見て文化後進国にあった新天地アメリカにいかにヨーロッパの文化を接ぎ木し、新しく誕生した民主主義国家にふさわしい独自の文化を形作っていくか。本書に収められた城戸光世氏の論文ではフラーのイタリア旅行記がイタリアとアメリカの文化をつないだことを論じ、竹内勝徳氏はエマソンの人種論から大西洋間の経済的移動までも視野に入れて、エマソンが苦労しながらもヨーロッパとアメリカをつないでいったことを論じる。

宗主国イギリスから独立した13植民地が、アメリカ合衆国として変容していく過程でアイルランド移民やドイツ移民を果敢に取り込み、多民族国家として大量の移民を受け入れ肥大化していき、ともすればその文化的アイデンティティを失いかねない状況は、今日のフロンティアを失ってもいまだに膨張を続ける帝国の姿が重なってくる。こうした多民族を抱えたアメリカという国家の像は、メルヴィルが『タイピー』や『白鯨』で描く、黒人や南洋諸島の人間まで含めた多様な人種から構成された船として表象されることを西谷拓哉氏の論は明らかにする。本書中でメルヴィルを論じる西谷氏の論と佐久間みかよ氏の論文が最初と最後に置かれているのは本書の構成の妙であろう。

高野泰志氏の論じる『アーサー・ゴードン・ピムの物語』において論じられるように、大西洋を越境するという冒険に繰り出す彼らを待ち受ける異人種との出会いや異なる文化との触れ合いは、当時の白人中心のヒエラルキーにひびを入れ、白人作家によって描かれたテクストが全く異なる人種のひとびとが行き交う大西洋航路の異人種たちのテクストとしてよみがえってくる。一つのテクストの中に異なる文化の可能性を読むという点では稲冨百合子氏の論がホーソーン『大理石の牧神』中に見出す古代ギリシア神話のピグマリオンの物語はテクスト中の異なる文化の存在を照射する。

アメリカン・ルネサンス期に文化人たちが取り組んだ課題には、新天地での新しい文化を作るうえで、民主主義国家にふさわしいというもうひとつの制約があった。ヨーロッパからの文化を受け継ぎつつも真に平等な国家と結びついた文化の存在が必要だったのである。多くの超絶主義者たちは奴隷制に反対しながらも、アメリカという国を空中分解させかねないこの繊細な問題に対し、慎重にならざるを得なかったことが飯野友幸氏のニューオーリンズでのホイットマン論、高橋勤氏のエマソン『イギリス国民性』論が読み取れる。また、本書の多くはアメリカ文学研究の大家マシーセンが定義したアメリカン・ルネサンス論に登場する作家を扱うが、中には小林朋子氏はディレイニーを論じることで本書に新たな色を添えている。

アメリカ文学を問い直すという試みは今に始まったことではない。これまでも私たちの常識としてきた文学史を問い直すことは繰り返し行われてきた。私たちに新しいテクストとの出会いをもたらす本書への旅は新たな文学史という大海への道標となり、予見できない後悔の可能性を示してくれる。

 

 

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:青柳萌里(慶應義塾大学大学院修士1年)

揺らぐ「境界」―大国アメリカの不安と想像力

 

我々の住む日本という国家は98.5[i]が単一の民族で構成されている上に、移民政策を積極的に進めているという訳ではない。ガイジンという言葉に代表されるように、日本の多くの人にとって、国家の内と外の区別は良かれ悪しかれはっきりとしていると言えるだろう。それに対して、アメリカはどうだろうか。アメリカはコロンブスによって「発見」されて以来、移民によって成り立ってきた、複数の民族によって構成される国家である。そこでは外から来た者が新たな「アメリカ人」となりアメリカという共同体に参加する。こうした国家にあって、アメリカらしさ、アメリカらしい文学とはいったいどう定義されうるのだろうか。本書『環大西洋の想像力 越境するアメリカン・ルネサンス文学』のキーワードの一つとなっている「アメリカン・ルネサンス」という概念は、こうした疑問に答え、アメリカ文学を確立させようとする一つの試みであった。

本書は前置きとなるポール・ジャイルズ氏の特別寄稿・一部・二部・三部の四部分に分けて構成されている。各部はそれぞれ、特別寄稿「アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間」、各五つの論文からなる「第一部 太平洋世界の旅と交易」、「第二部 ニューイングランドの変容」「第三部 国家とエスニシティ」と段階を追った内容になっている。これらを通して主に貿易・経済・ナショナリズム・アイデンティティの観点から「越境していく国家横断的想像力」について纏められている。

この論文集を読んでまず初めに興味を抱いたのは「アメリカ文学」を形成しようと試みる場と時代、アメリカン・ルネサンスの概念を初めて考え出したマシーセンの意図性である。この創造は、アメリカという国家の境界を強化しナショナリスティックなアイデンティティの確立に寄与する目的でなされた可能性が高いと本書は指摘している。境界がアメリカの内と外を分けるものであるとするならば、アメリカン・ルネサンスはそうした境界を明白に定義しようとする試みに他ならないだろう。

しかし、冒頭のポール・ジャイルズ氏の講演にはすでにこうした境界定義の脆弱性が指摘されている。そこでは、アメリカの特徴=移民を受け入れて「世界」化しながらも一定のアイデンティティを保っていくよう自らを調整しなければならなかったこと、とされているからだ。外からの人間を常に流入させ、内を保つ国家であるアメリカはヨーロッパと異なり、常にその境界を揺るがせている。また、歴史的にはアメリカのアイデンティティはイギリスから分離することで確立した。そのため前書きのメルヴィルの言にある通り「圧政者を憎む者自身が圧政者にな」る時、つまりアメリカがイギリスの継承者―帝国になる時、未曽有の矛盾に突き当たることとなる。

こうしたアメリカの境界の曖昧さを第一部の高野泰志氏は、「食」の表象という観点から扱っている。ここでは「食」は自己と他者の境界を前提にすると共に、他者の取り込みという点で境界を曖昧にするものでもあるとされている。この図式は、移民を受け入れながらもアメリカらしさを保持しようとするアメリカと重なるように私には思われる。また西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体」では『白鯨』における身体の異種混交性が描かれている。『白鯨』において可能となるこうした異種混交が、イギリスとアメリカの境界を扱った『イスラエル・ポッター』では逆に不可能となるという展開は、アメリカの境界を考える上で非常に印象深い。その一方、竹内勝徳氏の論では、エマソンを通じて、英米両国のナショナリズムが人種混合体論や国家横断的経済の想像的空間の中で解体されていったことが示される。

第二部では高尾直知氏がフラーとオルコットの関係性を取り上げ、イタリアとアメリカ両国家における統一運動からオルコットが描いたアメリカン・リソルジメントを論じている。また村田希巳子氏は、イギリスから始まった産業革命が英米両国に大きな変化をもたらしたことを「移動」の観点から論じている。社会・経済の変化がアメリカの作家ホーソーンにも著作の地理的範囲拡大を容易にさせたのである。また高橋勤氏はその「経済と道徳―綿花をめぐる物語」の中で、エマソンが奴隷制の問題をいかにニューイングランドの世界観の中でメタファー化していったかを論じている。第二部からはアメリカの内と外の交感と連動が、社会経済の変化に伴い強まっていくことが読み取れるだろう。

 第三部では稲富百合子氏の「『大理石の牧神』における人種問題」において、アメリカの揺らぐ境界に対する不安は再び扱われている。人種的曖昧性への恐怖は、混血児のために帝国主義的文脈における白人の優位が失われることへの恐怖であると指摘されている。私にはこうした人種的曖昧性は同時に、内の人間と外の他者との間の境界が崩れる可能性を内包しているようにも見える。こうした境界が揺らぐ恐怖は、内部の他者からの復讐を描いたメルヴィルの作品を扱う大島由紀子氏の論にも扱われ、やがて小林朋子氏の『ブレイク、あるいはアメリカのあばら家』における地球規模に広がる移動経路において、その空間的広がりの中に消え失せる。

 残念ながら今回触れることができなかった論文も多くあったが、この論文集を読んで改めて感じたのはアメリカの境界を揺るがし、超えていく想像力のダイナミックさである。そして冒頭にも述べたように、アメリカという国家のアイデンティティは、「世界」を飲み込み、自身が「世界」となっていくことに根差していた。そう考えれば、この越境する想像力は、その過程の中で、今後も継続し続けるであろうことが予測される。この本では、個々の論文の視点がそれぞれの島となり、それらを読んでいくことで我々自身が移動するネットワークの中の主体として再現される。ダイナミックな想像力の点が、線となり大きな空間となる過程の旅を追体験するのに最適の一冊である。



[i] “The World Factbook”. Central Intelligence Agency. 2013 15 May. 2013 6 July. <https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ja.html>

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:濟藤葵(慶應義塾大学大学院博士3年)

国家の枠組みとは何か

 

昨今のニュースからも推察されるように、島をめぐる領土問題は、決着がつきがたい頭を悩ます問題のひとつである。たとえば、日本と、中国、韓国、ロシアといった周辺諸国との衝突や、各国による領土認識の差がたびたび報道される。国境がこれほど恣意的に線引きされてしまうのならば、国家の枠組みとは非常に脆弱なものである。

F・O・マシーセンは、エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマンの五人の作家の文学作品が「国家としてのアメリカの独自性」や「アメリカの民主主義を体現するものであった」ということを示した。本書『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネサンス文学』(竹内勝徳、高橋勤編)は、マシーセンが選んだ五人の作家たちが「実はきわめて越境的な想像力を持つ人々であった」ということに注目し、これまで前提とされていたマシーセンの「アメリカン・ルネサンス」の概念を再考する。

本書は、トランスナショナリズムの権威であるポール・ジャイルズ氏による2011年の貴重な来日講演記録から始まる。本書はまさに、「国境を越えて他者の視点や価値観を想像すること」で、「国家がより柔軟な枠組みとしてとらえ直される」というジャイルズ氏によって定着した考えが凝縮した論文集である。本書は、第一部「大西洋世界の旅と交易」、第二部「ニューイングランドの変容」、第三部「国家とエスニシティ」から成り立つ。第一部は、メルヴィルの『白鯨』と『イスラエル・ポッター』を身体という観点から読み直す西谷拓哉氏の論考から幕を開ける。加えて、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』における食の描写に焦点を当てる高野泰志氏、エマソンの大西洋経済思想を主題とする竹内勝徳氏、ホイットマンによるニューオーリンズ滞在の影響について考察する飯野友幸氏の論文がつづく。ニューイングランド文学の変容をテーマに掲げる第二部には、エマソンの最初の妻であるエレンの埋葬とポーの「アッシャー家の崩壊」における埋葬を通して理性の枠組みを問い直す成田雅彦氏、英米両国の産業革命による社会変化がホーソーンの著作に影響を与えたことを指摘する村田希巳子氏、エマソンやソローの作品を用いながら奴隷制の議論と経済活動の変容との密接な関わりについて論じる高橋勤氏、ワーズワスの『抒情民謡集』を引き合いに出しホイットマンの詩を検証する阿部公彦氏といった興味深い論文が連なる。群島の特性が論じられている第三部には、ホーソーンのヨーロッパ体験が反映された『大理石の牧神』に登場するミリアムを人種的観点から読み解く稲冨百合子氏、メルヴィルの『クラレル』に描写された白人入植者と先住民との関係史に着目する大島由起子氏、マシーセンとチャールズ・オルソンの『白鯨』論を検討する井上間従文氏、メルヴィル、ソロー、エマソンの作品に見られるアイルランド移民表象を分析する佐久間みかよ氏といった読み応えのある論考が並ぶ。

本書は、マシーセンが選定した五人の作家―エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマン―以外の作家も扱う。その中で印象に残った論文を、各部から一つずつ取り上げたい。第一部に収録されている城戸光世氏による「共和国幻想―マーガレット・フラーのヨーロッパ報告」は、フラーがアメリカ女性初の海外特派員として大西洋を横断し、海外から『トリビューン』紙に記事を送っていたことに着目する。城戸氏は、革命を支持し、アメリカ社会に対する批判の姿勢を見せたフラーのイタリア報告の重要性を指摘する。フラーと深いつながりがあり、彼女の影響を多大に受けたのが、ルイザ・メイ・オルコットである。第二部に収録されている「「新しい霊がぼくにはいって住みついた」―オルコット『ムーズ』とイタリア」において高尾直知氏は、オルコットの『病院のスケッチ』と『ムーズ』を取り上げ、両作品の中にいかにフラーの思想や理想が盛り込まれているかを看破する。第三部に収録されている小林朋子氏による「根なし草の夢想した解放―経路で読む『ブレイク、あるいはアメリカのあばら家』」は、ポール・ギルロイの2つのルーツ(「起源」と「経路」)を念頭に置き、黒人登場人物がアフリカへ帰還するストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』のアンチテーゼとして書かれた、マーティン・ディレイニーの『ブレイク』を扱う。小林氏は、主人公が、「人種で結ばれた黒人の起源の地点アフリカを目指すことによってではなく、グローバルにはり巡らされたネットワークを移動することによって、隷属からの解放を模索している」ことを丁寧に読み解く。

あとがきでも述べられているように、たしかに、環大西洋という切り口に光を当てられるようになって久しく、現在、環大西洋からさらに環太平洋へと批評の注目が移りつつある。しかし、この指摘は、いささかも本書の価値を減ずるものではない。大西洋を中心に据えながらも、パレスチナ、アメリカ南部、太平洋をも射程に入れた本書は、アメリカン・ルネサンスの専門家だけでなく、昨今のニュースを通して国家の枠組みを再考する人々にとっても、ぜひ手にとって欲しい一冊である。 

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:塚本紗織(慶應義塾大学大学院修士1年)

 

 

批評の大海に浮かぶ孤島の群れ

 

 本書『環大西洋の想像力』は、九州の研究者が中心となったプロジェクト「大西洋交易の変容とアメリカン・ルネッサンス」の成果を一冊にまとめたものである。「アメリカン・ルネサンス」とは米文学者F. O. マシーセンが1941年の著作において19世紀中葉の男性作家たちを指した名称であり、彼ら――エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマン――がアメリカ文学の独自性を決定づけたとして長い間認識されることとなった。しかし、前書きにおいて編者の竹内勝徳氏は、そのアメリカン・ルネサンス期の作家たちは「きわめて越境的な想像力を持つ人々であった」とし、「国家という単位や制度そのものを飛び越え、その概念に対して解体と再構築をせまる要素に満ちている」ことに着目した。この考えはトランスアトランティック(またはトランスナショナル)という理論が土台になっている。その第一人者であるポール・ジャイルズ氏は巻頭に付された講演録で、「調査対象に別のやり方でひねりを加えるため」に「反転の力学がもつ方法論的推進力を発揮させること」を研究への効用とした。本書もそうした反転の力学に満ちているが、まず全15本の個々の論文を3部に「分断」された中身となっている。この枠組みは何を意味するのか。

 第I部は「大西洋世界の旅と交易」と銘打たれ、異国間の繋がりを調べるトランスアトランティック理論の教科書とも呼べる論文が集まっている。たとえば一番手の西谷拓哉氏は本理論の動向を紹介し、メルヴィルにおけるイギリスとアメリカのトランスナショナルと擬装する者とされる者の関係を重ねてみせ、高野泰志氏は南海の島への旅物語である『アーサー・ゴードン・ピムの物語』における食を介した自己と他者の転覆を分析する。他に竹内氏はイギリスへ渡ったエマソンを、城戸光世氏は後半生をイタリアで過ごしたマーガレット・フラーを取り上げ、アメリカと他国の相互に渡る影響関係を探っている。この流れからすると第I部の最後となる飯野友幸氏の「ニューオーリンズのホイットマン」の立ち位置は独特であろう。ホイットマンが旅するのは異国情緒あふれるとはいえ米国内の南部なのだ。しかし第II部に目をやればこの論文は両セクションの橋渡しであることが分かる。

 第II部は「ニューイングランドの変容」、主題は国内それも一地方だ。とはいえその「変容」は、上述のニューオーリンズと同じくトランスナショナルな交易によってもたらされ、そのまま経済のグローバル化などによりトランスナショナルな視座は残った。このことは村田希巳子氏と高橋勤氏の論考によく記されている。成田雅彦氏の「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬」が扱うエマソンとポーにおける啓蒙とロマン主義のせめぎ合いも、こうしたニューイングランドの歴史が前提にある。いわば本セクションはトランスアトランティックの応用編だ。それでも高尾直知氏はフラーのイタリア移住がルイザ・メイ・オルコットに及ぼした影響を扱い、前セクションとの関連性を示している。するとまた、ここにおいても終わりにある阿部公彦氏の「ホイットマンの音量調節」が目を惹く存在となる。阿部氏はホイットマンの比較対象としてワーズワースを取り上げるが、前者が後者に受けたであろう影響などを分析することは決してしない。ただ現代日本の高橋源一郎を媒介に、両者が持つとする静寂を並置するのみである。あたかも2人の関係を断絶してしまったようだが、このようにホイットマンが依拠したもの・されたものを排除することは第III部における「根なし草」のモチーフに近づくこととなる。

 「根なし草」は第III部中の小林朋子氏による「根なし草〔コスモポリタン〕の夢想した解放――経路で読む『ブレイク、あるいはアメリカのあばら家』」のみ出てきた言葉だが、このセクション「国家とエスニシティ」に通底する概念である。たとえば稲富百合子氏と大島由起子氏の論考で扱われた作品を見てみると、ホーソーン『大理石の牧神』の登場人物ミリアムとメルヴィルの長編詩『クラレル』の主人公は、多様な異国表象を持つ人々と関わりまた自身もそうした表象を持つが、来歴は不明であり安住の場を持つことはない。どこにも属すようでいて結局どこにも属せない孤独な両者は国家という枠組みを問い直す可能性を秘めるわけだが、この存在は残り3篇に出てくる「孤島」に重なる。上述の小林朋子、井上間従文、佐久間みかよの3氏はそれぞれ、奴隷文学や『白鯨』、アイルランド表象を用いて大陸、国家、都市といった陸の視点からの区分けを無効化する「島」が持つ役割を看破している。この地理学的な転換は、各セクションの主題が国家/大陸から都市、そして島へと変化する過程が既に示唆するものだ。

 終わりまで来て気づくのは、本書に収められた各論文そのものが、一つ一つの孤島として存在しているということである。3部に区分され空間化された論文たちは、セクション内外で地続きにあることを示しつつも、繋がりをずらし、越境する。あたかも国家や主体の境界線をくぐり抜けるように。つまり、本書の構成そのものがトランスアトランティック理論を自己言及しているのだ。こうして果敢に理論の中心に飛び込んでいるわけであるが、孤島の様相を呈することで同時にその枠組みの再考を読む者に促す。最初に引用したように、「概念に対して解体と再構築をせまる要素に満ちている」のであり、それは脱中心化を図ることでトランスアトランティック理論の可能性を広げているということだ。本流に向かうとともに発展を達成している本書は、個々の論文のレベルの高さも相まって、日本という島国で編まれた第一級のトランスアトランティック研究書となっている。

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:上田裕太郎(慶應義塾大学大学院修士1年)

「身体で感じるアメリカ文学」

 

ある日、私は授業の課題のために19世紀アメリカン・ルネサンスの小説を読んでいた。具体的な名前を出すと、フレデリック・ダグラスやハーマン・メルヴィルである。これらの作家の時代というのは歴史的に見ても、アメリカが自国の文学を形成しようとしていた時期であったのだから、課題として読み始める前に、当然のように私はこの時代の作家たちに対しては非常にローカルな「アメリカ文学」像を抱いていたのだ。ローカルな文学とは、その国の国民性・文化・言語と強い影響関係にあり、異なる文化圏の人間が読むと、若干の違和感を覚えてしまうという意味である。実際、アメリカの文学は、国民性が顕著に表れるように思われる。しかし、実際にアメリカン・ルネサンスの作品群に目を通して見ると意外や意外、不思議にも20世紀の文学以上に日本人の私が「なんとなく」共感できる部分が多かったのだ。フレデリック・ダグラスが扱う奴隷制など特に21世紀の日本に暮らす自分とは共通する部分が希薄だと思われたのにもかかわらず。

アメリカン・ルネサンスの作家にこうした「不思議な」共感を覚えたことがあるのは私だけではないだろう。今回取り上げる竹内勝徳・高橋勤両名による編著『環大西洋の想像力:越境するアメリカン・ルネサンス文学』という本は、漠然と感じるアメリカ文学、特にアメリカン・ルネサンス文学の持つ全地球的な側面の謎を具体的な言葉を用いて我々に提示してくれる本だと私は考えている。

本書の意義を一言でまとめるなら、冒頭に掲載されているポール・ジャイルズ氏による「アメリカ文学を裏返す」と言う言葉を用いるとしっくりくるだろう。アメリカ文学には「アメリカ」というローカルなイデオロギーの意味を探求する側面が付き物という伝統的な理解を裏返し、彼はメルヴィルの作品群などを例示しながら巧みにアメリカの全地球的側面をあぶりだす。

この本において、ポール・ジャイルズ含め多くの著者がメルヴィルの作品群を扱っている。その理由を考えてみると、まずメルヴィルは海洋小説を多く書いており、「海を渡る」ということがトランスナショナルの概念に繋がっていることは紛れもない事実である。しかし本書に掲載された論文を読み進めると、メルヴィルの作品でより示唆的なことは、さらに根底の部分、つまり異文化間の接触によって明らかになる身体の感覚であると解釈することができる。ポール・ジャイルズは地理の遠隔性に根差した「視差領域」を示しているが、実は視差領域とは相反するはずの物理的な身体の接触にも、空間の落差に由来する神秘的な側面が読み取れるように思えるのだ。

一例をあげよう。西谷拓哉氏の「メルヴィルとトランスナショナルな身体:『白鯨』、『イスラエル・ポッター』を中心として」という論文において、その特徴が非常に強く押し出されている。ここで西谷氏はメルヴィルの作品の中のアメリカと他国(他者)において、単純な従属関係とそれに伴う対抗意識として読むのではなく、むしろその作品内の具体的な他者同士の身体的な接触を通じた相互の作用を読み込んでいる。この「身体」による文化的接触というものは確かにメルヴィルの作品の中で重要なテーマであり、そしてこれがアメリカン・ルネサンスの作家に感じる「なんとなく」共感できる、といった感覚の秘密を解き明かす。

勿論この本全体において身体的な接触、他者の意識と結び付けられているのはメルヴィルだけではない。他の作家もまた同じような意識を持つことは、このほかに収録されている論文からも読み取ることができる。例えば、より「ローカル」なイメージを持たれている作家・ホイットマンである。この詩人を論じた阿部公彦氏の論文で特徴的なのは、我々に非常に近い問題である二年前の震災のトラウマを冒頭であげたうえで文学におけるテクストの「親密さ」とそのメッセージの音量、つまり声の大きさ/小ささについて語っている点である。その中で阿部氏はアメリカ的個人主義を体現している、というイメージが定着しているホイットマンを再解釈する。ホイットマンが調節するのは、自身の声であり、その声の持つ危うさは、一定の意味をもったletter以上に身体的であると言える。すべての論考を取りあげることはできないが、食によって打ち出される自他の境界の曖昧性について論じた高野泰志氏や、イタリアでの芸術作品との対話を通し、混血性に関するホーソーンの人種観を論じた稲富百合子氏など、この本の著者たちは皆、本来遠い国であるアメリカに対する物理的な距離と神秘的な距離の曖昧性に注目していると私は考える。

本書の最大の読みどころは太平洋を隔たった我々にも身体の奥底で通じる感覚をアメリカ文学の中に見出しているところにほかならない。本書は、物理的な距離感を感じがちな我々の持つ「なんとなく共感できる部分」を説明してくれるのみならず、もともと「アメリカ」文学像を確立させたアメリカン・ルネサンス文学に新たな視座を与えている。これは昨今よく耳にするグローカルという用語にも通じるのだろうか。アメリカからみて外部の人間である自分と、アメリカ文学との距離を感じてしまったときに、この論文集を手に取ることは有意義だろう。時代・大陸を越えて航海する感覚を味わうにはうってつけの一冊といえる。

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:小泉由美子(慶應義塾大学大学院修士2年)

「光と闇の薄暗さ」

 もし私たちの心が、アメリカの光と闇というテーマに捉えられるならば、それは光と闇の明暗法に魅了されるからかもしれない。パクス・アメリカーナの栄光と、先住民・奴隷・移民への抑圧の歴史。エマソンを透明な眼球へと導いた啓蒙の光と、イシュメイルを残して全てを飲み込んだメルヴィルの深く暗い海。しかし、光と闇の魅力は明暗法に尽きるものではない。ときに混じり合い、ときにある種の薄暗さを生じさせる。それは光と闇の共存、衝突、矛盾だろう。栄光と抑圧の歴史の果てに生きること。啓蒙の光を浴びつつ暗い海を前にして立ち竦むこと。本書『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』が教えてくれるのは、こうした薄暗さに宿る文学だ。

 竹内勝徳氏高橋勤氏の編集による『環大西洋の想像力ー越境するアメリカン・ルネサンス文学』(彩流社、2013年)は、三部編成、各五篇、計十五篇の論文から成り、冒頭には、ポール・ジャイルズ氏の2011年の福岡講演「アメリカ文学を裏返す」が寄せられる。本書の試みは、ジャイルズ氏による国境横断的視点を主軸に、アメリカン・ルネサンス文学を再考することだ。取り上げられる書き手は、エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマンに加え、エドガー・アラン・ポーに、マーガレット・フラー、ルイザ・メイ・オルコット、マーティン・ディレイニー、はたまたFO・マシーセンにチャールズ・オルソンと多彩である。第一部「大西洋世界の旅と交易」では、上記作家たちやその作品の登場人物たちによる、大西洋を舞台とした越境的活動が考察される。続く第二部「ニューイングランドの変容」では、大西洋に面し経済的・思想的交流の窓口として機能した、東部ニューイングランドに焦点が絞られる。第三部「国家とエスニシティ」では、人種、異文化、移民たちの表象へと光が当てられ、イタリア、ユダヤ、黒人奴隷、北米先住民、アイルランドをめぐる作家たちの越境的想像力が検討される。

 ここでとりわけ注目したいのは、第二部「ニューイングランドの変容」に収められた二つの論文、成田雅彦氏による「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬ーエマソン、ポー、「理性」のゆくえ」と、阿部公彦氏による「ホイットマンの音量調節」だ。ニューイングランドという土地は、17世紀植民地時代からの古い価値観が根付く一方、18世紀以降は大西洋を超えて新しい啓蒙主義的理性がもたらされ、19世紀中葉にはアメリカン・ルネサンスが花開く舞台となる。上記二つの論文は、この地を舞台としたアメリカン・ルネサンスの作家たちが、一見すると確固とした啓蒙主義的理性や知性に依拠しながらも、いかに彼らの足下が不安定で危ういものであったかを露呈させる。

 成田氏の「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬」によると、啓蒙主義的理性は、呪術や情念に蓋をしようと努めてきたが、のちに限界を迎え、そのことがアメリカン・ルネサンスの作家たちの描く「埋葬の破綻」というモチーフに表れているという。この点が、エマソンとポーそれぞれの「埋葬」が取り上げられ、論証される。エマソンは、理性への信奉から、呪術を追放・埋葬したのち、自身の理性を神秘主義へと昇華させ、ポーは、短篇「アッシャー家の崩壊」において、理性の信奉者ロデリックに妹マデラインを埋葬させ、その蘇りを描く。エマソンが、理性へ依拠したにもかかわらず、「一足跳びに我々の意識を神の巨大な力、神秘的光源に向けた」一方、ポーは、理性を信奉するあまり「女性的な欲動、生命力」に肯定的な力を与えることができなかったという。理性による、呪術の埋葬と女性的情動の埋葬は、どちらも成就しないのだ。

 阿部公彦氏による「ホイットマンの音量調節」は、3.11以後の日本で、震災鬱に見舞われた高橋源一郎氏が、抒情詩が持つような親密で小さな声の語りは読むことができた、というエピソードから始められる。こうした抒情詩の小さな声は、声高に語るイメージを持つホイットマンにも見出せるという。阿部氏はこの点を、詩人の「僕は知っている(I know)」という表現に注目することで検証する。ホイットマンは、「僕は知っている」と繰り返すことで、むしろ彼の知が「無根拠」であり「論証や証明が可能なものではないし、採点したり、当否を議論したりすることができるというものでもない」ことを露わにする。と同時に、こうした「薄暗い」無根拠さの奥に垣間見える「弱さ」の魅力は、「ある種の安定した言葉に心がもはや反応できなくなったとき」に気付かれるものかもしれないという。もし、このある種の安定した言葉というものが、19世紀アメリカの啓蒙主義的理性の言葉にあたるとするならば、それに対して心が反応できなくなったときとは、前述の成田氏が論じるとおり、エマソンが神秘主義へと飛躍したとき、ポーが埋葬の失敗を描かざるを得なかったとき、と言えるかもしれない。ホイットマンの小さな声は、理性や言葉の破綻に直面したものたちに響くだろう。

 1941年出版のマシーセンの『アメリカン・ルネサンス』は、その文学的価値を語る点において、光に満ち溢れていたかもしれない。しかし、約70年を経て「裏返された」アメリカン・ルネサンスは、どことなく薄暗い。それは抑圧の歴史に由来するのかもしれないし、大西洋という暗い海に由来するのかもしれない。あるいは、9.113.11以後の現代に由来するのかもしれない。いずれにせよ、本書『環大西洋の想像力』は越境的視点により、国境を越え、海を渡ることで、これまでにない新しいアメリカン・ルネサンス像を私たちに与えてくれる。