Cafe Panic Americana Book Review

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書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:塚本紗織(慶應義塾大学大学院修士1年)

 

 

批評の大海に浮かぶ孤島の群れ

 

 本書『環大西洋の想像力』は、九州の研究者が中心となったプロジェクト「大西洋交易の変容とアメリカン・ルネッサンス」の成果を一冊にまとめたものである。「アメリカン・ルネサンス」とは米文学者F. O. マシーセンが1941年の著作において19世紀中葉の男性作家たちを指した名称であり、彼ら――エマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマン――がアメリカ文学の独自性を決定づけたとして長い間認識されることとなった。しかし、前書きにおいて編者の竹内勝徳氏は、そのアメリカン・ルネサンス期の作家たちは「きわめて越境的な想像力を持つ人々であった」とし、「国家という単位や制度そのものを飛び越え、その概念に対して解体と再構築をせまる要素に満ちている」ことに着目した。この考えはトランスアトランティック(またはトランスナショナル)という理論が土台になっている。その第一人者であるポール・ジャイルズ氏は巻頭に付された講演録で、「調査対象に別のやり方でひねりを加えるため」に「反転の力学がもつ方法論的推進力を発揮させること」を研究への効用とした。本書もそうした反転の力学に満ちているが、まず全15本の個々の論文を3部に「分断」された中身となっている。この枠組みは何を意味するのか。

 第I部は「大西洋世界の旅と交易」と銘打たれ、異国間の繋がりを調べるトランスアトランティック理論の教科書とも呼べる論文が集まっている。たとえば一番手の西谷拓哉氏は本理論の動向を紹介し、メルヴィルにおけるイギリスとアメリカのトランスナショナルと擬装する者とされる者の関係を重ねてみせ、高野泰志氏は南海の島への旅物語である『アーサー・ゴードン・ピムの物語』における食を介した自己と他者の転覆を分析する。他に竹内氏はイギリスへ渡ったエマソンを、城戸光世氏は後半生をイタリアで過ごしたマーガレット・フラーを取り上げ、アメリカと他国の相互に渡る影響関係を探っている。この流れからすると第I部の最後となる飯野友幸氏の「ニューオーリンズのホイットマン」の立ち位置は独特であろう。ホイットマンが旅するのは異国情緒あふれるとはいえ米国内の南部なのだ。しかし第II部に目をやればこの論文は両セクションの橋渡しであることが分かる。

 第II部は「ニューイングランドの変容」、主題は国内それも一地方だ。とはいえその「変容」は、上述のニューオーリンズと同じくトランスナショナルな交易によってもたらされ、そのまま経済のグローバル化などによりトランスナショナルな視座は残った。このことは村田希巳子氏と高橋勤氏の論考によく記されている。成田雅彦氏の「アメリカン・ルネサンスと二つの埋葬」が扱うエマソンとポーにおける啓蒙とロマン主義のせめぎ合いも、こうしたニューイングランドの歴史が前提にある。いわば本セクションはトランスアトランティックの応用編だ。それでも高尾直知氏はフラーのイタリア移住がルイザ・メイ・オルコットに及ぼした影響を扱い、前セクションとの関連性を示している。するとまた、ここにおいても終わりにある阿部公彦氏の「ホイットマンの音量調節」が目を惹く存在となる。阿部氏はホイットマンの比較対象としてワーズワースを取り上げるが、前者が後者に受けたであろう影響などを分析することは決してしない。ただ現代日本の高橋源一郎を媒介に、両者が持つとする静寂を並置するのみである。あたかも2人の関係を断絶してしまったようだが、このようにホイットマンが依拠したもの・されたものを排除することは第III部における「根なし草」のモチーフに近づくこととなる。

 「根なし草」は第III部中の小林朋子氏による「根なし草〔コスモポリタン〕の夢想した解放――経路で読む『ブレイク、あるいはアメリカのあばら家』」のみ出てきた言葉だが、このセクション「国家とエスニシティ」に通底する概念である。たとえば稲富百合子氏と大島由起子氏の論考で扱われた作品を見てみると、ホーソーン『大理石の牧神』の登場人物ミリアムとメルヴィルの長編詩『クラレル』の主人公は、多様な異国表象を持つ人々と関わりまた自身もそうした表象を持つが、来歴は不明であり安住の場を持つことはない。どこにも属すようでいて結局どこにも属せない孤独な両者は国家という枠組みを問い直す可能性を秘めるわけだが、この存在は残り3篇に出てくる「孤島」に重なる。上述の小林朋子、井上間従文、佐久間みかよの3氏はそれぞれ、奴隷文学や『白鯨』、アイルランド表象を用いて大陸、国家、都市といった陸の視点からの区分けを無効化する「島」が持つ役割を看破している。この地理学的な転換は、各セクションの主題が国家/大陸から都市、そして島へと変化する過程が既に示唆するものだ。

 終わりまで来て気づくのは、本書に収められた各論文そのものが、一つ一つの孤島として存在しているということである。3部に区分され空間化された論文たちは、セクション内外で地続きにあることを示しつつも、繋がりをずらし、越境する。あたかも国家や主体の境界線をくぐり抜けるように。つまり、本書の構成そのものがトランスアトランティック理論を自己言及しているのだ。こうして果敢に理論の中心に飛び込んでいるわけであるが、孤島の様相を呈することで同時にその枠組みの再考を読む者に促す。最初に引用したように、「概念に対して解体と再構築をせまる要素に満ちている」のであり、それは脱中心化を図ることでトランスアトランティック理論の可能性を広げているということだ。本流に向かうとともに発展を達成している本書は、個々の論文のレベルの高さも相まって、日本という島国で編まれた第一級のトランスアトランティック研究書となっている。