書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 永嶋友(慶應義塾大学大学修士2年)
ダイナミックな越境から日常的な越境まで
文学研究者は独自性を追求し過ぎると、自分の視野を狭めてしまうことがある。私を含めそのような悩みを抱く研究者にとって、大陸を横断するというダイナミックな読み方を提示するトランスアトランティック研究は、その救済策の1つになるだろう。この研究手法は、その堂々たる名称から、脱中心化、脱神話化といった、前提を転覆する大胆な読み方を基本とする印象がある。しかし、実際には、何かを越える(trans-する)想像は、日常的で身近なものでもあることが『環大西洋の想像力』を通して見えてくる。
本書は、本部に先立ち、トランスナショナリズム・トランスアトランティック研究の草分け的人物である、ポール・ジャイルズによる特別寄稿「アメリカ文学を裏返す」が付されている。本書の題名『環大西洋の想像力』にも関わらず、ジャイルズの議論は時に大西洋外にも及ぶ。「類似的反転」として、太平洋が大西洋を、東が西を映し出すからである。また、ジャイルズは空間的越境に加え、時間的越境を指摘している。中世主義が近代アメリカを映し出すように、過去には現代や未来が見出されるのである。こうした越境的アプローチは、「沈黙の中に覆い隠してきたもの」に「光を投げかけ」、文学を「全地球的次元」へと捉え直すことに繋がるとジャイルズは大きく主張をまとめている。
この研究手法を踏襲、発展した論文15本を収めた本部は、第一部「大西洋世界の旅と交易」、第二部「ニューイングランドの変容」、第三部「国家とエスニシティ」の全三部から構成される。各論考には序文があり、各作家・作品についての概略も適宜提示されているため、考察対象の作家や作品を専門としていない読者にとっても読みやすい内容になっている。
第一部は、作家や作品の登場人物の旅や、国家横断的な交易に関する論が並ぶ。例えば、竹内勝徳氏はエマソンの英米経済思想をひも解き、城戸光世氏は旅行記作家としてのマーガレット・フラーを考察し、それぞれが国家横断的な分析を示している。一方、西谷拓哉氏は、メルヴィルが描く人物の身体表象に注目し、自己に不調和的な身体感覚を考察し、また、高野泰志氏は、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の登場人物ピムの食の描写に扱い、移動先で接触する「他者」を食し「自分」に取り込む行為を考察している。身体における違和感や食という日常的行為が、「自己」を越境し変化させるという生新な論理は注目に値する。
第二部は、大西洋を駆け巡る文化交流、情報交換、主義思潮の変化に関する論考が集められている。人物の空間的越境を扱った第一部とは対照的に、第二部は大陸横断的な思想や本土内外における情報との接触という身近な越境の体験を考察している。成田雅彦氏はエマソンとポーにおける「埋葬」の意義を考察し、越境の地を死後の世界や無意識の世界に設定している点が興味深い。髙尾直知氏は、オルコットの思想にイタリア統一革命で看護婦を務めたマーガレット・フラーの影響を見出し、受容学的に越境を扱っている。阿部公彦氏は、ホイットマンの詩における音声表現をイギリス叙事詩の伝統に重ねあわせ、比較考察を行っている。詩の極めて小さな表現でさえも、国家横断的な想像力を持つという議論には驚かされる。
第三部は、空間的、思想的越境がどのような国家観、民族観を形成するに至るかが考察されている。稲冨百合子氏はホーソーンの『大理石の牧神』のミリアムにユダヤ人やクレオパトラのイメージが重ねられることを考察し、ホーソーンの人種観に新たな一面を見出している。大島由起子氏は、メルヴィルの長編詩『クラレル』のネイサンの家系がアメリカの国家形成の過程を遡るように移動することに注目し、メルヴィルの人種観に迫っている。第三部はこのようにダイナミックな越境的人種観、民族観、国家観を表す論考が並んでいるが、F. O. マシーセンとチャールズ・オルソンのメルヴィル解釈を分析する井上間従文氏の論考は、その二者が、「学校」が制度化する「教師」と「生徒」関係から遠い所に立とうとしているとし、メルヴィル受容を「教室」という日常的な場と関連づける新奇な議論が示されいる。
このように、ジャイルズが提唱する大胆な空間的越境から、素朴で日常的な言説からひも解く越境まで、越境的想像力は留まる所を知らない。そのため、文学研究者がそのような多種多様な越境的想像力を身につけるには、様々な論考に多くあたる必要があるだろう。その目的達成のためには、本書のような批評撰集の構成は大変望ましいものであり、本書は越境的想像力を学ぶ者にとっての最初の一冊になるはずだ。あとがきを読むと、この批評選集本の編集に竹内勝徳、高橋勤両氏が大変な苦労を要したことが窺い知れるが、私はこのような苦心の良書に巡り合えたことを幸運に感じている。今後、トランスアトランティック研究が人々にさらに浸透し、アメリカ文学のみならず、イギリス文学やその他の文学における越境的想像力も考察されていくことを期待したい。