Cafe Panic Americana Book Review

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書評 遠藤不比人編『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)  評者:上田裕太郎(慶應義塾大学大学院修士課程2年)

公平「有」私な日本像

 

 洋食屋でサラダを頼む時、「ドレッシングは和風と洋風どちらにしますか?」と聞かれたことは誰でも一度はあるだろう。選択に迷った時ほど、しばしば和風ドレッシングを頼みたくなってしまうのは私だけではないはずだ。「ああ和風が美味しい、やはり自分は日本人だなあ」と呟くものもいるだろう。その選択には母国への主観があり、その像を客観的に捉えることは難しい。ドレッシング選択の時はそれでいいが、和洋の観点で文化や社会について論じるときはそうはいかない。かといってただ客観的に和風ドレッシングはカロリーが・・・のように数値的に評するだけでも面白くない。そこで大切なのは公平「有」私な態度だと私は考える。

海外の文化・社会への大きな造詣と下敷きがあればあるほど、最終的に関心は「じゃあ母国はどうだ」という方へ向かうことが多い。他国を見ることで得た客観性と母国をみる主観性の同居、そこに公平「有」私な態度が生まれるといっても過言でない。その点で遠藤不比人編の『日本表象の地政学』における日本像は重要である。というのも遠藤含め本書に執筆している論者たちは英米文学・文化の研究者であり、言うなれば「洋」のプロフェッショナルたちである。それぞれの論者は、英米文学・文化研究で長らく積み重ねた公平で綿密な視点とともに、ルーツである日本文化について私的に楽しんで書いているように思える。本書の読者たちは、著者たちがアカデミックな意味では専門分野ではない「日本」をいかに料理するかという公平「有」私な底力を目にすることになる。その快感は本書でしか味わえない。

 本書は四部構成で、「海洋」「原爆」「冷戦」「ポップカルチャー」と分けられ、それぞれに二つずつの論文をおさめている。目次を見るだけでも非常に幅広い範囲をカバーしており、誰もがどこかにアンテナが立つようになっているのは編者の構成力の高さを示している。第一部の「海洋」は吉原ゆかりと脇田裕正によるもので、環太平洋を越えた日本とアメリカの関係性によってみえてくる日本の遅れてきた帝国主義の萌芽を論じる。第二部「原爆」では日本表象の重要な転換点である原子爆弾へのある意味フィクション的な態度について、斉藤一は英文学者福原麟太郎の沈黙を通して、日比野啓は福田恒存の戯曲『解つてたまるか!』を通して論じている。第三部「冷戦」では、冷戦という背景の下で「伝統」的な日本像とその脱政治的なレトリックについて、越智博美は川端康成、遠藤不比等三島由紀夫という、ともにしばしばカタカナ書きされる作家を取り上げている。

ここまで紹介してきた論はどれも示唆に富んでいる。公平「有」私という点で特に興味深いのは第四部「ポップカルチャー」だ。個人的嗜好に左右されがちな難しいテーマについて中野正昭と源中由記はそれぞれに非常に緻密な議論をしている。源中の「仏作って、魂を探す─ピチカート・ファイブと日本のポピュラー音楽の真正性」では、音楽ファンにはなじみ深い名前が沢山登場し、フックとして読者をひきつける。論自体はピチカート・ファイブの楽曲に対する、「フィリーソウルなどのアメリカ音楽の真似」、「表面だけまねてソウル入れず」という批判を出発点に、小西康陽山下達郎の対置を大筋として論じている。しかしただ対置するだけでない。例えば双方のエンジニアがかの吉田保だったなどの共通点を挙げるなど細部にも注目している。また筆者は、山下とその兄貴分的な存在である大滝詠一細野晴臣なども同様に先達の英米ポップス・ソウルを系譜的な視点で「編集」しており、実際彼らの立場はそう簡単でないことも付け加える。渋谷系との類似と断絶についての考察は筆者の理解の深さを示しているといえる。この論文を貫くのは、環太平洋的な観点での考察と、名前を挙げられる音楽家たちへの深い愛であり、読んで楽しい論文だ。

一方、中野正昭は「アメリカを夢みたコメディアン─古川緑波のアメリカニズム」にて「昭和の喜劇王」と称された古川緑波の知られざる姿を明らかにする。伝記的に追いながら、一貫して緑波には当時敵国だった英米への「憧れ」があったことを緻密に述べていく。そのうえで憧れのアメリカを模倣するだけでなく、「恐妻家」、「狭い乍らも楽しい我が家」というなじみ深い日本的なモチーフと「モダニズム文化」を結び付けていく緑波の姿が論じられる。本論文は緑波の魅力が存分に引き出されており、読み終わると、彼について詳しくなったような気を起こさせてくれる。

本書の公平「有」私な議論によって、現われる多様な日本像は、我々が今まさに直面する諸問題にも通じており、論者たちも共通してそのような問題意識を持っていることがうかがえる。誰しもが多かれ少なかれ「洋」に触れる昨今こそ、今後自分たちが「日本」をどうとらえていくかは重要であり、そのヒントを示してくれるという点でお勧めの一冊である。

書評 遠藤不比人編『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(彩流社、2014年)  評者:小泉由美子(慶應義塾大学大学院博士課程1年)

日本人を演じる日本人 

 

  わたしが敬愛してやまない作家・色川武大は、『麻雀放浪記』や『狂人日記』が比較的よく知られ、博打やナルコレプシーのイメージが強いけれども、なにより、少年期からアメリカ映画にどっぷり浸かっていた人物だった。彼は1987年から『週刊大衆』で「色川武大の御家庭映画館」を連載。仏独伊の作品も含まれるが、主たるはアメリカ映画が対象だ。ビデオコレクターとしての色川を知る人は多い。しかし、アメリカの文化の日本へ浸透は、戦後の高度成長期以降、ジーンズやマックやスタバとともにあったと、ただ漠然と捉えていたわたしにとって、戦前にもアメリカ映画が流入し、色川を長く魅惑していたこの事実を知ったとき、それは誠に大きな驚きであった。

  そう、それはまさに、このたび彩流社より刊行された『日本表象の地政学――海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(遠藤不比人編)が説く、日本に潜む「アメリカの影」だった。本書は、日本人という表象の構築性を前提にし、環太平洋の視点から再読する。その際、開国前夜から戦後冷戦期を経て90年代までを貫く、非常に長いスパンを設定しながら、海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャーという四つのテーマに、鋭利に切り込んでいる。四部構成、各パートに二つ、計八つの論考が収録される。取り上げられるのは、『ロビンソン・クルーソー』を内面化させ、ジャパニーズ・ロビンソンの如くアメリカへと漂流・冒険した田中鶴吉と小谷部全一郎。忘れられた海洋作家・米窪満亮。英文学者の福原麟太郎福田恆存、作家の川畑康成、三島由紀夫。あるいは、昭和の喜劇王・古川緑波に、ポピュラー音楽ピチカート・ファイヴ。これら対象の多様さも、本書の大きな魅力の一つと言えるだろう。

  その中でも、ここでは三つの論文に注目したい。日比野啓による「『解つてたまるか!』を本当の意味で解る為に――福田恆存の「アメリカ」」(第二部)、遠藤不比人による「症候としての(象徴)天皇とアメリカ――三島由紀夫の「戦後」を再読する」(第三部)、中野正昭による「アメリカを夢見たコメディアン――古川緑波のアメリカニズム」(第四部)である。というのも、これら三つの論考は、日本人表象の虚構性とアメリカへの愛憎をより前景化させているように感じるからだ。

日比野論文は、1968年の金嬉老事件から着想された福田恆存の演劇『解つてたまるか!』を取り上げる。多くの場合、本作はわかりやすい社会諷刺喜劇とみなされる一方、日比野は、諷刺とも喜劇とも言えない「奇妙さ」に目を留め、むしろ「解りやすくない」作品として問題視する。その際、本作の間テクスト性を詳らかにするとともに、福田による平和主義批判に潜むアメリカへの愛憎を暴露し、「原爆」や「贋物」が孕む問題を提示しながら、「解らなさ」を解るための案内図を読者に示してくれる。

  遠藤論文は、三島由紀夫を扱う。もはや三島の国粋主義は、割腹自殺も相まって、自明であるかに見える一方、その国粋主義と、三島のテクストにおけるカタカナの多用という奇妙な矛盾を突くことで、そこに潜在する「アメリカの影」を照射する。フロイトの去勢の論理を参照しながら、三島の象徴天皇が孕む、否定と承認の二重性へと至る論旨の進みは、この上なく刺激的だ。

  最後に言及したいのは、中野論文だ。戦前にもアメリカの映画が上演され、多くの人々を魅了していたことを、昭和の喜劇王・古川緑波の伝記を参照しながら、論証してくれた。演出家「緑波」から、喜劇王「ロッパ」へと至る軌跡を追いながら、「アメリカニズムの舞台化と日本化」を検討する。しかし、ここで敢えて疑問を呈すならば、アメリカニズムの日本化とは、一体何だろうか? 中野論文が、「緑波=現実」「ロッパ=虚構」と捉えていることを考慮すれば、アメリカニズムの日本化とは、あくまで虚構化だったのではないか?それは翻って、本書を貫くテーマ「日本人表象の構築性」と共鳴する。

  中野論文が参照する『古川ロッパ昭和日記』の戦前篇が世に出たとき、色川は、その刊行を祝すレビューを『文芸春秋』に寄せている。浅草の「へんな連中」を綴った『あちゃらかぱいッ』や『なつかしい芸人たち』の書き手である色川が、ロッパの全盛期にもどっぷり浸かっていたのは言うまでもない。後者収録の「ロッパ・森繁・タモリ」では、殿様気質で駄ジャレ好き、飽食たたって糖尿病、戦後、精彩を欠き、61年、「あっけなく」亡くなったロッパの姿を、色川流のあたたかく鋭い視点で書き上げる。色川によれば、ロッパは、戦時中、カタカナ名禁止のため、「緑波」に統一していたそうだ。そうであるならば、戦中以降、「現実としての緑波」にも、虚構とアメリカの影が潜む。

  「アメリカの影」は、日本人に日本人を演じさせてきたのだろう。とはいえ、本書は、日本人表象への「影」の混入を批判するのではなく、むしろ、その雑種性を擁護する。「日本人」といえど自明でない。目の醒めるような思索の海を求めて、ぜひともご一読していただきたい。

 

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:田ノ口正悟(慶應義塾大学大学院博士2年)

アメリカ古典文学の「味」

 「何度食べても美味しい。それが古典といわれる作品です。」高校時代、国語の授業中にある先生がこう言っていた。耐えられない眠気のために授業中は意識を飛ばしてしまっていることが度々あるわたしだったが、10年以上経った今でも不思議とこの言葉は覚えている。本来は読み物である文学作品を、食べ物と重ねて表現していたことがなんだかおかしかったのだろう。この言葉を改めて実感させてくれたのが、竹内勝徳氏と高橋勤氏による『環大西洋の想像力』である。

 本書が提起する新たな観点は、アメリカ文学における古典作品はいかにして国境を越えるかということである。そもそもアメリカ古典文学というのは、F. O. マシーセンという批評家によって1940年代に規定された。彼は、民主主義というアメリカの理念を文学で体現することができたエマソン、ソロー、ホーソーンメルヴィル、ホイットマンという5人の作家を選定し、彼らが活躍した19世紀中葉をアメリカ文学史における初めての黄金時代として、アメリカン・ルネサンスと名付けた。

 彼の定義はその後、アメリカ文学研究において長年受け継がれていった。しかし、1980年代になると、階級やジェンダー、それに人種といった様々な観点から、この定義は度々再考を迫られるようになる。なぜなら、彼の定義はアングロサクソン系白人プロテスタントWASP)の男性作家に限定されていたからだ。この意味で、アメリカ古典文学は、1940年代の確立から80年代の再考を経て、すでに何度も咀嚼されてきたと言える。では、もう全てを語り尽くしたのかというと、そんなことはない。『環大西洋の想像力』は、文学の持つ「越境的な想像力」という新たなテーマを持ち出してアメリカン・ルネサンスを再考する

 本書の見所はずばり、大西洋を越えた先にあるヨーロッパを志向するアメリカ人作家の意識が、いかにアメリカが抱えていた政治的問題や文化的環境と連動していたのかを明らかにした点にある。本書のコンセプトである越境するアメリカ文学の視座を提供するのは、冒頭に収められたシドニー大学教授ポール・ジャイルズによる論考だ。彼は、マシーセンから新歴史主義にいたるアメリカ文学研究に通底する問題を明らかにする。すなわち、従来の文学研究が考察対象を国境の内部に限定してきた結果、文学の持つ国家横断的想像力がないがしろにされてきたというのだ。

 『環大西洋の想像力』は、ジャイルズの示したアメリカ文学研究における根本的な問題に対処すべく、15名もの日本人研究者が様々な論を展開する。まさに「食」という観点に注目しながら、19世紀中葉の白人が抱えた主体の揺らぎを論じてみせたのは高野泰志氏による「トランスアトランティック・アペタイト」だ。高野氏はエドガー・アラン・ポーによる『アーサー・ゴードン・ピムの物語』から、大西洋で繰り広げられるおどろおどろしい人肉食の恐怖を取り上げることで、食べるという行為がいかに食べる主体としての白人と食べられる客体としての他者を峻別するか、そして逆に、その両者を混乱させるのかを明らかにする。

 文学における越境を論じる本書が魅力的なのは、実際に越境体験があるかどうかがいかに作品に影響を与えているのかに着目してくれるからだ。佐久間みかよ氏による「マン島の水夫、『孤島に生まれて』」は、メルヴィルの作品を中心にしながら、当時の社会の中心にいたWASPのアイルランド表象を探る。氏の論考が示唆的なのは、WASP19世紀半ばに急増したアイルランド人移民に対して脅威を感じていたのみならず、ノスタルジアを感じていたという点にある。彼らの意識の中では、アイルランドの「緑」あふれる大地はアメリカを建国したピューリタンたちの故郷であり、そして彼らは、その大地に自身のルーツを見い出したのである。

 行ったことのない土地に自身の故郷の姿を見つけようとするアメリカン•ノスタルジアを論じた佐久間氏に対して、城戸光世氏による「共和国幻想」は海を越えて自らイタリアへと向かった女性作家マーガレット・フラーを扱う。売れっ子の新聞記者であり社会改良運動家でもあったフラーは1846年にアメリカを出て、イギリスとフランスを視察した後でイタリアに到着する。フラーによるその視察の報告では、自由と平等の共和国を実現しようと崇高な理念に燃えるイタリアが好意的に報じられていたが、それと同時に、アメリカの共和制への堕落を戒める内容も見られた。城戸氏の論考は、フラーの「ヨーロッパ報告」というこれまで顧みられることのなかった作品に焦点を当てることで、アメリカ古典文学研究にさらなる新味を加えてくれる。

 ここでは残念ながら触れることができなかった批評も多いが、そのどれもがアメリカ古典文学の想像力がいかに国境を越える力を秘めていたのかを見事に論じてくれている。エマソンやホーソーン、それにホイットマンといったマシーセンの定義に選ばれた古典作家の再評価から、その定義を再考しようとするようなオルコット論に至るまで、本書は何度食べても美味しい古典文学の味を存分に語ってくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者:大島範子(慶應義塾大学大学修士2年)

揺らぐアメリカ

 

 竹内勝徳・高橋勉の編集による本書『環大西洋の創造力―越境するアメリカンルネサンス文学』は、かつてF. O. マシーセンが1941年に「アメリカン・ルネッサンス」として位置付けた時代、すなわち、19世紀半ばのアメリカ文学に着目する。批評対象として挙げられるのは、メルヴィルホーソーン、ホイットマンなどマシーセン自身が定めた所謂「正典」は勿論のこと、マーガレット・フラーやポー、時代は下りマシーセン本人、そしてマシーセン直系の弟子であるところのオルソンに至るまで、そうそうたる顔ぶれである。

 無論、マシーセンが提示した文学史観への様々な観点からの批判が加えられることになって久しい。その流れにおいて必然的に、「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体が変質し、時代区分の面から見てもまたそこに含む作家の面でも拡張され、境界線も曖昧にされていくことになったのだが、本書はあえて、その批評対象を、マシーセンが当初想定した「アメリカン・ルネッサンス」に近い範囲に限定し、その上で、そこにマシーセンが確固たるものとして見た「アメリカ的なるもの」に実は大いに含まれていたナショナルアイデンティティの揺らぎを考察している。この揺らぎこそが、本書のタイトルにもなっている、若きアメリカの「環大西洋の想像力」である。既に出来上がった国家としての不動の確信よりはむしろ、周囲の国々との関係(あるいは、未だ出会わぬものとの「想像される」関係)の中で規定される不安定な足場から−−より正確に言うなら「不安定さ」という足場から、作家たちがアメリカという国家を想像/創造していったその過程を、本書からは生き生きと感じることが出来るだろう。

 ポール・ジャイルズ氏による特別寄稿『アメリカ文学を裏返す―環大西洋の海景と全地球的想像空間』(田ノ口正悟・渡邉真理子訳)からから始まり、本書は三部構成から成る。第一部「大西洋世界の旅と交易」では、作家あるいは作中登場人物のトランスナショナルな「移動」に着目し、その移動の中で出会う異なる文化がいかに「主体」たる作家・作中人物のアイデンティティを揺るがすかを考察している。飯野友幸の『ニューオーリンズのホイットマン』では、アメリカ南部もまたある種の「異国」として扱われていることが意表を突く。19世紀中ごろのニューオーリンズは、ニューヨークなどよりも遥かに人種と文化の混淆の凄まじい、そして国境の曖昧なある種の「異国」だったのである。第二部「ニューイングランドの変容」では、アメリカ北部の文化の中心地であったニューイングランド自体が他国との交流を通じて変化していく中で、作家たち自身の経験した曖昧さや変化を追う。とはいえ、ここでもニューイングランド派とは呼ぶことの出来ない南部出身作家ポーの『アッシャー家の崩壊』がエマソンと並べて論じられていていることに注目したい。第三部「国家とエスニシティ」においては、プロテスタンティズムに基づく白人の国家アメリカから見た国内の他者―ユダヤ人、ネイティヴアメリカン、黒人、アイルランド人―の作品における表象、さらに国内の移民から作家たちが想像するアメリカ以外の国家の表象を探る。想像されたこれら他国家との関係において(場合によっては時間・場所共に大西洋を隔て遠く離れた国家にアメリカを仮託しながら)、あらためてアメリカという国家自身の姿が再び想像されるのである。ここにおいては、井上間従文が『帝国内の「ほつれた縁」、または、生政治の「孤島」たち』で、「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体を後代になって作りあげたマシーセンその人、さらにその弟子たるオルソンを扱っていることが興味深い。全体としてはマシーセンの定めた範囲に則りながら、各部すべてがそこから逸脱する作家・研究家を対象として含んでいるのである。「アメリカン・ルネッサンス」という概念自体が最初から含んでいた、確固としているように見せつつもすぐにでも境界線から雪崩をうって広がり出しそうな不穏さが、このような構成からも感じられる。

 ここでは全てに触れることは出来ないものの、本書に収録される論考全てに共通して言えるのは、確固たる「主体」も、完全なる「他者化」「客体化」も(たとえそうであろうと、あるいはそうしようと志向したとしても)有り得ない、という立場であろう。想像上の他者との関係性において主体は規定され、主体の想像を逸脱していく現実の他者によって主体は絶えず脅かされ、揺らぐ。変質以前の主体さえ、変質以後の主体にとっては想像上の他者なのである。事実、アメリカという国家はその後、本書に収録される『メルヴィルとトランスナショナルな身体』において西谷拓哉が指摘するように、西漸運動から始めてやがて全世界への影響力を高め超大国としての地位を築いていくその過程で、「世界をアメリカ化」しながら同時に「アメリカを世界化」していくことになる。アメリカが他者を飲み込んで行きながら自己を拡張していった歴史はそのまま、アメリカが、飲み込んだ他者によってそのアイデンティティを変質させられていった歴史であると見ることもできるのだ。

 そしてまた、当然のごとく、「19世紀中ごろのアメリカ」も、21世紀の日本に住んでいる人間にとっては「他者」であり『客体』である。本書はそのような我々に、揺らぐ「他者」の一端を、揺らぎをそのままに捕まえる手助けをしてくれる。それだけではなく、現代のアメリカを、さらに、明らかにアメリカという国家の文化との強い関わりを意識せざるを得ない我々自身の国家を見る上でも、アメリカが国家としての黎明期にあった時代にどのような「不安定さ」に基づいていたかを、作家たちの視点からもう一度考えてみることは、非常に意義のあることと言えるだろう。

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 細野香里(慶應義塾大学大学修士2年)

枠組みのその先へ―融解する国家と文学研究の今後

 例えば、書店の海外文学コーナーに足を運んでみて欲しい。アメリカ文学、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学……。万国旗のように並んだ仕切りの表示を見ながら、これでは単体の仕切りの作られていない国は存在を認められていないみたいだ、とは思わないだろうか。自国文学の擁立は国家形成における重要なステップである、という政治家めいたスローガンが、頭を過ぎるかもしれない。では、文学と国家の関係性とはいかなるものか。

 FO・マシーセンは、1941年の著作『アメリカン・ルネサンス』において、19世紀中葉のアメリカ人作家による文学活動を「アメリカン・ルネサンス」と呼んだ。経済的成長を遂げ、国際社会での存在感を強めていた当時のアメリカにおいて、自国の文化的成熟と国家の理念である民主主義を同時に打ち出すマシーセンの仕事が為されたことはごく自然な成り行きと言えよう。しかし、白人男性作家のみを取り上げ「民主主義のアメリカ」を裏書きすることを念頭に置いたマシーセンの読みは、アメリカ文学研究に一つの素地を提供すると同時に、現在に至るまで見直しと検証の対象になってきた。

 『環大西洋の想像力―越境するアメリカン・ルネサンス文学』もまた、マシーセンの提唱した「アメリカン・ルネサンス」を捉え直す一連の批評活動に連なる試みである。そしてこの論文集のもう一つの柱が、タイトルにある通り「環大西洋」というキーワードだ。「トランスナショナル」という概念がアメリカ文学批評の俎上に乗せられて久しいが、本作品は中でも、マシーセンが取り上げたエマソン、ソロー、メルヴィルホーソーン、ホイットマンの5人を含むアメリカン・ルネサンス期の作家達が、当時の大西洋を跨る人の流れや経済的・政治的影響関係をいかに吸収し、「越境的想像力」を各々の文学的営みに反映させていったかに着目している。シドニー大学教授であるポール・ジャイルズ氏による特別寄稿を皮切りに、3部構成、全15編の論考を収めた大部の著作である。第1部「大西洋世界の旅と交易」では、大西洋交易やアメリカ国内の経済・交通網の発達に伴う作家達の移動、そしてその作品への影響が分析される。第2部「ニューイングランドの変容」では、大西洋を跨いだ影響関係が、アメリカ国内、特にニューイングランドを中心とした文学にいかなる変容をもたらしたのかを追う。第3部「人種とエスニシティ」では、大西洋を挟んだ作品世界における人種、異文化、移民の表象を読みとることを通じ、「エスニシティの側から見た国家」の姿、そしてそこから立ち上がる「新たな(脱)国家観」を探ることが目的とされ、現在のアメリカ文学研究における主要トピックの一つである群島論が取り上げられている。

 異なる観点に立脚した各部において、イタリアをテーマに据えた論文が奇しくも1編ずつ含まれているのは興味深い。19世紀アメリカの女性知識人とイタリアとの関わりは、近年盛んに論じられているテーマであるが、この3編を通して、本書が問い直している文学と国家の関係性を垣間見ることができる。第一部に収録された城戸光世氏による「共和国幻想―マーガレット・フラーのヨーロッパ報告」では、19世紀中葉を代表する知識人であったフラーの、『トリビューン』紙海外特派員としての1846年から1850年にかけてのイタリア滞在を再評価する試みが為されている。革命運動の只中にあったイタリアでの滞在が、いかにフラーの革命支持の思想を導き出したか、そして自国であるアメリカに対する批判へどのように反映されているかが考察されている。しかし、大西洋を越え新たな見地を得たフラーが再びアメリカの地を踏むことはなく、彼女は帰国途上での海難事故で命を落とす。その続きは、彼女の思想の影響を受けたルイザ・メイ・オルコットを取り上げた第二部の高尾直知氏による「『新しい霊がぼくにはいってすみついた』―オルコット『ムーズ』とイタリア」に引き継がれている。高尾氏は、南北戦争従軍看護師としての経験を綴った1846年のオルコットの著作『病院のスケッチ』での描写に、イタリア特派員として現地の革命の様子を伝え、結果的に命を落としたフラーへのオマージュを見てとる。こうして1861年のガリバルディによるイタリア統一南北戦争の勃発という、大西洋を跨いだ政治的背景を受け、フェミニストとしての先達者であるフラーに自身を重ねることで、オルコットが南北戦争を男女の社会関係変革の運動を促進する契機と捉えていたことを喝破する。国家間の境界は、作家の移動や政治的影響関係によってあいまいな、透過性のあるものになってゆく。

上記2本の論考が、他者としての「国家」間の対比と影響関係、つまり、アメリカという国家が出会った、大西洋の向こう側に位置する他者としてのイタリアという視座に立っていたのに対し、第3部に収められた稲富百合子氏による「『大理石の牧神』における人種問題―ミリアムを中心として」は、国家の内部に存在する他者、特に人種的他者に焦点を置いている。イタリアという異国の地を舞台に、人種的他者の影を幾重にも描きこまれた混血のミリアムを通じて、ホーソーンがアメリカ人読者に何を提示したのかを分析している。ここでは、内側に存在する他者によって、マジョリティによって構築された国家という枠組みが内部から瓦解していくさまが見て取れる。

今回はイタリアというキーワードをもとに3本の論考を取り上げて紹介したが、これらを通じ、もはや国家という枠組み自体の解体なくしては文学を語ることのできない時代に突入したことがわかるだろう。言うまでもなくここで言及することの叶わなかった論文各々が、独自の切り口でアメリカン・ルネサンスと環大西洋を巡る問題意識に新たな光を投げかけている。そして、上記3本の論考の関係性のように、併せて読むことによって読者にさらに魅力を増幅させた学術的示唆を与えてくれる。国家という枠組みから逃れ、さらにその枠組み自体を問い直してゆく文学のあり方がここにある。(2456字) 

 

 

書評『環大西洋の想像力—越境するアメリカン・ルネサンス文学』 評者: 永嶋友(慶應義塾大学大学修士2年)

 ダイナミックな越境から日常的な越境まで

 

文学研究者は独自性を追求し過ぎると、自分の視野を狭めてしまうことがある。私を含めそのような悩みを抱く研究者にとって、大陸を横断するというダイナミックな読み方を提示するトランスアトランティック研究は、その救済策の1つになるだろう。この研究手法は、その堂々たる名称から、脱中心化、脱神話化といった、前提を転覆する大胆な読み方を基本とする印象がある。しかし、実際には、何かを越える(trans-する)想像は、日常的で身近なものでもあることが『環大西洋の想像力』を通して見えてくる。

本書は、本部に先立ち、トランスナショナリズム・トランスアトランティック研究の草分け的人物である、ポール・ジャイルズによる特別寄稿「アメリカ文学を裏返す」が付されている。本書の題名『環大西洋の想像力』にも関わらず、ジャイルズの議論は時に大西洋外にも及ぶ。「類似的反転」として、太平洋が大西洋を、東が西を映し出すからである。また、ジャイルズは空間的越境に加え、時間的越境を指摘している。中世主義が近代アメリカを映し出すように、過去には現代や未来が見出されるのである。こうした越境的アプローチは、「沈黙の中に覆い隠してきたもの」に「光を投げかけ」、文学を「全地球的次元」へと捉え直すことに繋がるとジャイルズは大きく主張をまとめている

この研究手法を踏襲、発展した論文15本を収めた本部は、第一部「大西洋世界の旅と交易」、第二部「ニューイングランドの変容」、第三部「国家とエスニシティ」の全三部から構成される。各論考には序文があり、各作家・作品についての概略も適宜提示されているため、考察対象の作家や作品を専門としていない読者にとっても読みやすい内容になっている。

第一部は、作家や作品の登場人物の旅や、国家横断的な交易に関する論が並ぶ。例えば、竹内勝徳氏はエマソンの英米経済思想をひも解き、城戸光世氏は旅行記作家としてのマーガレット・フラーを考察し、それぞれが国家横断的な分析を示している。一方、西谷拓哉氏は、メルヴィルが描く人物の身体表象に注目し、自己に不調和的な身体感覚を考察し、また、高野泰志氏は、ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の登場人物ピムの食の描写に扱い、移動先で接触する「他者」を食し「自分」に取り込む行為を考察している。身体における違和感や食という日常的行為が、「自己」を越境し変化させるという生新な論理は注目に値する。

第二部は、大西洋を駆け巡る文化交流、情報交換、主義思潮の変化に関する論考が集められている。人物の空間的越境を扱った第一部とは対照的に、第二部は大陸横断的な思想や本土内外における情報との接触という身近な越境の体験を考察している。成田雅彦氏はエマソンとポーにおける「埋葬」の意義を考察し、越境の地を死後の世界や無意識の世界に設定している点が興味深い。髙尾直知氏は、オルコットの思想にイタリア統一革命で看護婦を務めたマーガレット・フラーの影響を見出し、受容学的に越境を扱っている。阿部公彦氏は、ホイットマンの詩における音声表現をイギリス叙事詩の伝統に重ねあわせ、比較考察を行っている。詩の極めて小さな表現でさえも、国家横断的な想像力を持つという議論には驚かされる。

第三部は、空間的、思想的越境がどのような国家観、民族観を形成するに至るかが考察されている。稲冨百合子氏はホーソーンの『大理石の牧神』のミリアムにユダヤ人やクレオパトラのイメージが重ねられることを考察し、ホーソーンの人種観に新たな一面を見出している。大島由起子氏は、メルヴィルの長編詩『クラレル』のネイサンの家系がアメリカの国家形成の過程を遡るように移動することに注目し、メルヴィルの人種観に迫っている。第三部はこのようにダイナミックな越境的人種観、民族観、国家観を表す論考が並んでいるが、F. O. マシーセンとチャールズ・オルソンのメルヴィル解釈を分析する井上間従文氏の論考は、その二者が、「学校」が制度化する「教師」と「生徒」関係から遠い所に立とうとしているとし、メルヴィル受容を「教室」という日常的な場と関連づける新奇な議論が示されいる。

このように、ジャイルズが提唱する大胆な空間的越境から、素朴で日常的な言説からひも解く越境まで、越境的想像力は留まる所を知らない。そのため、文学研究者がそのような多種多様な越境的想像力を身につけるには、様々な論考に多くあたる必要があるだろう。その目的達成のためには、本書のような批評撰集の構成は大変望ましいものであり、本書は越境的想像力を学ぶ者にとっての最初の一冊になるはずだ。あとがきを読むと、この批評選集本の編集に竹内勝徳、高橋勤両氏が大変な苦労を要したことが窺い知れるが、私はこのような苦心の良書に巡り合えたことを幸運に感じている。今後、トランスアトランティック研究が人々にさらに浸透し、アメリカ文学のみならず、イギリス文学やその他の文学における越境的想像力も考察されていくことを期待したい。